末世時代の楽観
末世である。末世の中で希望を持って生きる方法。楽観である。社会がどういうことであるとしても、人間は楽観的に生きる事はできる。自分というものに必ず到達する。自分の絵を描くことが出来る。そのことは社会とは関係がない。自分と生まれて自分として死ぬ目的である。
行き過ぎた資本主義が激しい競争になり、拝金主義が横行する世の中になった。このままでは人間は滅びるところまで行くのではないかと危ぶまれる。この解決策はどこにも無いかのように見える。社会全体を見渡せば、絶望するばかりだから、足下から出来ることをやるほかない。
これが今の世の中に対する感想である。情けない残念な気持ちでいる。やるべき若い時代に何も出来なかったという後悔である。分かれ目は70年前後にあった。あのときに何も出来なかったために、今のこの末世があるのだと思う。あのとき出来なかったのだから、いまできることはない。それでも今、できる限りをしなければと思う。
今自分に何が出来るのか。絵を描くこととのぼたん農園を作ることだけだ。わずかなことである。個人的なことかも知れない。社会が崩壊してゆく過程を見ながら、何をやっているのかと言うことになる。何が出来るのかは問わず、今やれることに尽くす以外に生きることはない。道元禅師だってそうだったのだろう。
プーチンの軍事侵攻は想像を出来なかった。と言うことは次の戦争がどこで始まるかも想像できないということにならざる得ない。それが中国が覇権主義で、台湾侵攻をするだろうという想定が現実味を持つことになる。だから日本も中国を攻撃できるミサイルを持たなければならないという選択になっているのだろう。
この選択は、日本が平和憲法を捨てて、軍事国家に変わるという大転換である。戦後築いてきた平和主義の終焉である。憲法の拡大解釈ではなく、憲法を無視して敵基地攻撃型ミサイルの配備である。それを大方の国民が仕方がないと受け入れている。まだまだ不足だというのが、自民党と維新の考えのようだ。
ミサイルを配備する南西諸島には防人の島としての犠牲が強いられている。このことも大方の国民が仕方がないことだろうと、他人事としてみている。その理由を地政学的にとか言うが、最先端の優秀なミサイルであれば、東京に基地があっても石垣島に基地があったとしても変わらない。
ところがJアラートを見れば、日本の探知能力は極めて水準が低い。どこにミサイルが落ちるのかなど、判断が出来ない。これでは確かに先制攻撃と言うことになるのだろう。先制攻撃なら近いほど良いだろうし、南西諸島が犠牲になるのが良いのだろう。と政府は考えている。
東京にミサイル基地があれば、攻撃されたときに日本全体が崩壊する。南の離島に基地を置くのが合理的だろうと、つまり、南の離島の人間を犠牲にしての国防である。この防人の島は日本全体の犠牲になるために、どんな見返りを得たのだろうか。果たして感謝されているのだろうか。
見返りどころか、マイナスばかり増えているではないか。ミサイル基地で良いことなど何一つない。沖縄を犠牲にしておけば良いというところは、少しも変わっていない。それはアメリカが、日本を犠牲にしておけば良いということにも通じているのだ。
石垣島の住民はこうして切り捨てられて暮らしている。しかし、石垣議会の自民党と公明党の市会議員と、山中市長は自衛隊が守ってくれると考えているらしい。台湾や尖閣を攻撃するついでにまず、石垣島のミサイル基地を叩いておくことを、どうやって防ぐというのだろうか。
ミサイル基地を石垣島の安全を高める施設だとしている人は、きちっと住民にその実際を説明する義務がある。特に中山市長にはその義務がある。日本の防衛省によると地上配備型の弾道ミサイル発射機数は2020年に533機あるそうだ。石垣のミサイル基地がどう機能して中国のミサイル基地すべてを攻撃できるのかを示す義務がある。
誰がどう考えても戦力が違いすぎる。中国の基地一つを叩く間に、無数のミサイルが撃ち込まれると考えざる得ない。ミサイルで中国に対校できると考えるほど自衛隊も愚かではないだろう。石垣島を犠牲にして時間を稼ぎ、アメリカ様のお助けを待って、本土を守ろうというのだろう。
愚かだと思うのはこんな形で石垣島を犠牲にするミサイル基地を誘致した中山市長である。自民党と公明党の市会議員である。人間は一体何故こんな選択をしてしまうのだろうか。今も自衛隊歓迎、石垣島の防衛に感謝します。こんな看板が目立つようになった。
悪い空気である。気持ちの悪いことだ。そのうち、こういうことを書くような輩は押しつぶしてやると、圧力がかかるだろう。覚悟はしている。こうして戦時体制に進むのだろう。強い者を忖度して、何も言わなくなる。すでにそういうみえない圧力が起きているの考えた方が良い。
商売人であったり、親戚関係であったり、建設業関係者であったり、自由にものが言いにくい状況は生まれているのだろう。私は社会との繋がりが薄いからものが言いやすいのだろう。私に圧力をかけようにもたいした因縁がない。
ある日ミサイルで破壊されるとしても、やるべきことは変わらない。これはあり得ない大げさなことを書いている。実際には中国は台湾侵攻はしないとみている。まだまだ中国は経済成長の余地がある。経済が成長してゆけば、台湾との関わりも変化する可能性がある。経済関係が深くなれば、何か新しい状況が生まれるかも知れない。
社会を考えれば、絶望的な気持ちになる。それでも今日ものぼたん農園の完成を目指して、やれることをやる。それ以外にないと考えている。自給農業の形をなんとしても実現する。毎月稲刈りをする農業を実現する。畦で行う畑を実現する。水牛を使う伝統農業の形を石垣島に残す。そんなことに意味があるのかと言われればそうなのだが、私に出来ることをやるだけだ。
農場の完成までは長い道のりがあるが、必ずたどり着くという気持ちで、今日やれることをやる。末世の世であるから、どこで断ち切られるかは分からないが、今日やれることをやりきることに専念するほかない。おかげさまで今のところ田んぼも畑も何とか進んでいる。
田んぼの土壌は一年耕作した分だけ良くなっている。稲の生育も新しい田んぼより、2年目の田んぼの方が生育が良い。土壌をよくすることを主眼にしていることは間違っていないようだ。腐植を増やして行く。アカウキクサ農法である。ひこばえ農法の2年目の挑戦もある。様々なやり方でひこばえ農法を試してみたい。
この末世を直視して絵を描きたい。絵はここで終わればどうにもならない。何が出来るのか、どうすれば良いかは分からないが、日々の一枚の継続と、どこかで飛躍をしなければならないだろう。すべてを恐れずひたすら描いて行くほかない。