絵を描く片岡鶴太郎さん

   


 
 片岡鶴太郎さんという、ものまねで一世を風靡したお笑いタレントだった人だ。役者として渋い役を演じていた。マルチ人間というのだろうか。ボクシングでプロのライセンスを取った。ヨガをやっているらしい。さらに、画家と呼ばれるようになり、美術館まである。

 この人がまだお笑いタレントであった若い頃、何かの写真撮影で、絵を描いているところに現われたことがある。その撮影を見たいわけではなかったのだが、絵を描き始めた場所で撮影を強引に延々と始めたのだ。何の挨拶もなく迷惑な話ではあったのだ。

 そのために撮影の場面を数時間も見せられてしまった。絵の講習会で描き始めた絵だったので、夕方までに描かなければならなかったので、できるだけ無視して描いていた。向こうも邪魔だとは思っていたのだろうが、場所を移動するわけにも行かなかった。

 そのときの、余りにへりくだる鶴太郎さんの態度には、ちょっとうんざりした。タレントと撮影者はこうした力関係なのかと驚いてしまった。まだ鶴太郎さんが駆け出しだった頃なのかも知れない。衣装を何度も何度も着替えさせられるのだ。どの衣装も良くないということで、着せ替え人形である。

 衣装担当が悪いのであって、鶴太郎さんが悪いわけではなかろうに、ヘコヘコ頭を下げ謝りまくる姿には、何とも嫌な気持ちがさせられた。それでも撮影をしているカメラマンは偉い人なのか、でかい態度で指図を繰り返していた。こんなくだらない仕事で、時間を取らすなよ、というような感じだった。

 この時のことを絵を描くようになった鶴太郎さんを見て思い出したのだ。鶴太郎さんは気を遣いすぎる人だということ。鶴太郎さんの絵はまさに気遣いの商品絵画である。鶴太郎さん自身が書いていることだが、絵はものまねの経験を生かして、模写で勉強したという。

 これはという絵を見て、つまり評価されている絵を見て、それを繰返し真似たのだそうだ。その結果、画業20年で冒頭の絵に至ったと言うわけだ。この絵が良いから欲しいという人がいることにも驚くところだ。真似から始める絵の典型を見る気がする。

 絵は真似から始めると、自分の世界に到達できないことになる。出来上がった他人の絵の世界をいくら見ても、それは自分の世界ではない。もちろん商品絵画を目指す人はそれでもいいわけだが。早く目立つためには真似る才能が必要なのかも知れない。

 別段片岡氏をけなそうというのではない。現代社会は資本主義末期の世界だ。すべての者を商品価値で判断する社会の中に生きている。多くの人がその中で生きるのは当然のことだろう。そういう意味で絵に於いてもものまねで始めれば良いという、要領の良い考え方はあるだろう。

 以前イタリアの画家のアトリエまで尋ねて、作品を写真撮影し、模写して、日本で発表していた画家がいた。受賞作が盗作だったとして、取り消されたことがあった。しかし、日本の画家のほとんどは、盗作といえば言える気がする。真似から始めるのが、上手の早道というような世界なのだ。盗作と制作のけじめのようなものが失われている。

 しかし、自己存在を探るというような昔風の藝術主義からいえば、商品絵画は全くの別物なのだ。片岡氏は中川一政の真似をしていたことがある。似て非なるもので、醜いばかりであった。小田原駅に巨大な鶴太郎さんの陶壁画があるので、見れば分かって貰える。表層をいくら真似たところで、中川一政氏の人間の高みには到底及ばない。当然のことだろう。

 絵の中に中川一政の存在に迫る気迫のような世界を見ているわけだから、真似てその絵面にいたろうという、片岡氏の浅薄な姿が嫌みにしか見えなかった。そんな絵の描き方が、現代の絵画世界には実に蔓延しているのだ。評価する側の鑑賞眼の低さがある。絵がそんな表面的なもので判断でされている。

 こんな風に書くと、出来ないからひがんでいるのだろうと思われるのかも知れない。確かに私には真似すら出来ないし、世間的に相手にもされていない。そのことを良かったと思っている。その結果として、たいした絵ではないが、たいしたことない自分の絵が描ければ良いと思って絵を描くことが出来る。それでいいと思うのだ。

 絵が自分の人間の範囲を超えるとすればそれはおかしなことだろう。結局絵の世界観は人間の成長以外にないということだろう。良寛の書の魅力は良寛さんの魅力であるに違いない。そう鶴太郎さんは書家も自称している。ものまねの書ではつまらない。

 鶴太郎さんを見たいから、鶴太郎さんの書を見たとして、そこに鶴太郎さんがいない。誰かの真似をしている鶴太郎さんはいるのかもしれない。それはつまらないことではないだろうか。ものまねのすばらしい鶴太郎さん、何でもそこそこまで行く努力が出来る人間の、すさましい様まで書が表していなければ。

 鶴太郎氏の書は一風変わった代書屋の書き物に見える。最近世間に出回る自称書家の字から日本文化の劣化を如実に感じる事ができる。書の精神性のようなものはどこかに行ってしまった。絵も同じなのだろう。真似をしている内に、藝術と言うものの本質を忘れてしまった。

 カルチャーセンター文化ということなのかもしれない。カルチャーセンターでは要領の良い絵を描く手順を教えるのだろう。サクラはこう描きなさい。水はこう描きなさい。薔薇ならこういう絵の具を使い、こういう手順ですよ。一見それ風になるのかも知れない。

 その要領の良い人が良いカルチャーの先生なのだろう。しかし絵を描くというのはまったくそういうことではない。藝術としての絵に描き方などない。趣味のお絵かきであれば、絵を描く要領というものはあるだろう。そういうことではどうにも成らない物が、自己表現である。

 自己表現は同意しても表現しないで入られないなのものかを、内なるものとして抱えているかどうかである。その内なるものの深遠さが人に伝わるものである。正直自分の絵を考えるとまったく至らない気持ちだ。しかし、いつかはそこまで行くという気持ちは持っている。

 鶴太郎さんの画業20年の絵で言えば、気取っているのだ。巧みに見せようとしている浅はかさが見えてしまう。自分の眼が見ているという感じがしない。こういう描き方を覚えて、描いているように見えてしまう。こういう絵が売れてしまうと言う今の世の中の、浅はかさを感じるところだ。

 鶴太郎さんを実は評価している。すべてを出し尽くしているところだ。誰でもがプロのボクサーにはなれない。お笑いタレントとしても一流。絵も巧みに描きこなす。ヨガの行者のように一日1食だそうだ。日々やりきっている。それならそれで、真似なんかもうしなくても良いだろうにと思うのだ。

 芸一筋でないところが、鶴太郎さんの独特の所だし、このさきの可能性なのではないだろうか。還暦からが勝負ではないか。もしこれだけやれる人が、本気で自分を探して絵を描けば、すごい絵が出来るのかも知れないと思うのだ。今度は熊谷守一仙人の人間の生き方の方を真似たらばどうだろうか。

 - 水彩画