年賀状を描き始めた。

   



 今年も年賀状を描いている。水彩で大判ハガキサイズで描いている。サイズを大きくしたのは年賀状にさらに力を入れたくなったからだ。年賀状を描くのは自分の水彩画の勉強の気分。250枚くらいまとめてあれこれ描くと言うことに意味がある。

 年賀状でいつも何かしら気がつくことがある。色々の水彩画を気楽に試しながら描いている。気楽というところが年賀状を描く良い所だ。それでは貰う方が迷惑かもしれないが、まあ大目に見て貰って描いている。偶然に良いのも出来るし、ダメなのも沢山出来る。

 この偶然というのが絵を描くことには大切なことだ。まあ、どっちもどっちなのだが。ダメなものが何故ダメなのかはとても参考になることだ。偶然良く出来たよりも、案外にダメという意味が深い。描いた絵はすべて同じはずなのだが、そうでもない。良いこともあれば、悪い事もある。おかしな事である。

 書道家と称する方々は沢山書いて一枚を選ぶらしい。何か書の精神というものはそういう物ではないような気もするのだが、今の書というのは代書屋さんのようなものだから、沢山書いてうまそうに見えるものを選ぶのが普通になったのでは無いだろうか。囲碁の棋士であった藤沢秀行さんの書は下手で良かった。松坂屋の展示で見た中でも、特に下手な字は今でも思い出す。棋士藤沢は待ったをすれば最強と言われた人だ。アル中だとも言われていた。

 絵には良いも悪いも無いはずだ。そんなつもりで年賀状を描いている。下手な絵が届いたら、そう思って我慢して貰えば良い。描く前から言い訳ではしょうが無いが。言い訳をして気持ちを維持しているのだから仕方がない。それほどいいものなど出来るはずが無いから、しょうが無いことだ。

 あと10日ぐらい描ける時間がある。250枚描くつもりだ。今100枚くらいは出来ている。ということは一日15枚くらい描く事になる。年賀状は絵を描いている合間に描いている。経験の無い水彩表現が出来ると一つ自由になれた気持ちだ。思いも寄らない発見が、絵の中に潜んでいるのだ。毎年何かを見付けている。

 いつもはハガキサイズなのだが、今回は大判ハガキにしているので何か違う。少し大きさに余裕があって絵らしくなっているようでもある。ハガキサイズではさすがに絵と言うには小さすぎるのかもしれない。すると大判ハガキサイズは一番小さい繪のサイズと言うことになるのか。

 大きい絵の限界サイズが中判全紙で、小さい繪の限界サイズが大判ハガキ。それぐらいかもしれない。小さいとどちらかというと抽象性が高まる気がする。小さい画面に、こちょこちょ描く気にはなれない。エイとやると画面をすぐにはみ出る。

 小さい繪は大まかに、大きい絵は細々と。根拠は無いがそんな風に感じる。大まかにやると木を描いたつもりでも、緑の面のようになる。色面の構成した抽象画のようにも見える。木の一部分なのだ。自分ではすべて具象画のつもりで描いている。

 海と思って描いていて、空にするかというような変更はあるが、青い色面という意識では無い。たいていの場合描いているものは具体的な意味がある。具体的には空なのだが、色面に見えても良いとは思っているが色面を意図しているわけでは無い。

 絵が自分の今の状態を一番表していると思っている。だから年賀状には水彩画を描いている。楽観農園を作っている喜びのようなものが絵に現われているに違いない。そもそも楽観農園で年賀状は描いている。アトリエ車を農園の中に停めて描いている。

 さすがに12月だと炎天下に車を止めていても、30度ぐらいまでだ。風があるから気持ちよく絵が描ける。年賀状の方に時間はとられてはいるが、一日一枚は水彩画も描いている。一昨日は何故か戸隠山のあの不思議な稜線を思い出しながら、紅葉の戸隠を一日描いた。昨日は戸隠から少し下った当たりにあった紅葉に埋もれた2軒の小屋を描いた。

 絵を描いているとやはり、年賀状と違うと思う。頭の中に戸隠山が現われてきた。あの不思議な山塊の様子が現われる。霞んでいた崖の様子や、鋭い稜線の姿。裾模様の紅葉の木々。どんどん世界がはっきりしてくる。戸隠キャンプ場から描いた戸隠になった。

 戸隠も何度も描きに行った場所だ。人の来なくなった頃のキャンプ場は絵を描くには絶好の場所だった。何度も絵を描いた場所は忘れないものだ。絵を描き出すとどんどん記憶が引き出されてくる。こうして頭の中に湧き出たものが絵に描くものとなる。

 これは目の前に海を見て海を描いていても同じことである。見ているのに見ていない。見ていて海を思い出している。今見ている海も、思い出している海も、絵の上では同じことである。絵に描くべき事は自分の中にある海である。写し取る意識は無い。

 年賀状を描くときは手に委ねている感じだ。頭の中に湧いてきた景色をそのまま考えずに手が描いている。試行錯誤はしない。湧いてくる勢いに委ねている。そうして絵を描く頭を刺激している。絵に反応する頭と手の訓練のようなものなのだろう。年に一回はこうした訓練が必要だと思っている。

 年賀状の絵を作ることの方に熱中していて、余り受け
取る人のことは考えていなかった。これは別段自己顕示というわけでも無い。その時々に出し切りたい思いのようなものが押し寄せてくる。こうしてブログを書き続けているのと年賀状は同じことだ。

 何かになると言うことでも無い。日々の修行のような気持ちだ。朝の動禅とも変わらない。一日一枚の絵を描くと言うことも同じだ。やると決めたことを継続する。止めることが怖いような気持ちもいくらかあるかもしれない。自分の覚悟のようなものを見ている。決めたことが出来なくなれば、そこまでのことだと思っている。

 歳をとったからもう良いというような気持ちになりたくない。新たに楽観農園作りに取り組むことにした。よほどの覚悟で無ければ関わった方々に迷惑をかける。やり抜くという覚悟を強く持って進まなければならない。楽観農園の完成までは年賀状も止められない。

 水彩画を一日一枚描くのはさすがにいくらかは違う。年賀状を描くこととも違う。むしろ、一枚の自分の絵を描く為に楽観農園作りに取り組んだのだ。やりたいと思う夢に挑んでゆくことが無ければ、絵は描けない。絵は希望であり、日々の絶筆である。その一日をやり尽くす思いだ。

 今日も楽観農園作りに出掛ける。今日は道の整備をしたい。道の草刈りが進めば、車が溜め池のそばまで降りることが出来る。昔はそこまで道があったようだ。田んぼの脇まで車で降りられるようにしたいものだ。

 - 水彩画