水平線が直線なのはおかしいのだろうか。
先日水彩人展の会場で同人仲間から、笹村の絵は水平線がまっすぐすぎると言うことを言われた。その人は自分の絵を探して苦悩している。気になっていたことではあるので、有り難いことを言ってもらえた。こういうことを率直に言ってもらうために、水彩人展をやっているのだと思う。
水平線というものは線という言葉で言われるように、線に見えることは見えるが、線では無い。空と海の境目である。山の端が山のあなたに続いているように、水平線は終わりを示しているわけでは無い。その向こうの海を見せなければならない。
確かにできる限りまっすぐに水平線を引いてみている。何故絵画的と言われるような線は、定規で引いたような一直線では無いのかと言うことが気になっているからだ。まっすぐに見えているものをまっすぐに引いてどこで絵でなくなるのだろうか。線の向こうに続いているはずの海が感じられないからなのだろう。
そう考えながら、一生懸命まっすぐに引いてみている。まっすぐでありながら、絵の中で収まって欲しいという感じがしている。水平線のまっすぐな感じはとても良いと思うのだ。絵の中では世界というものの基準線のようにも見える。
このことが良く理解できたときにはまっすぐな線が絵として引けるのではないかと思っている。同じようなことなのだが、田んぼのイネを一本ずつ描いていては絵にならないと言うことがある。絵にならないとしてもきちっと1本づつ田んぼに生えているようにを描いてみたいと思っている。
絵になる必要など無いのではないかという気持ちもある。絵になるという感じ方は、絵というものの先入観なのでは無いだろうか。未だかつてない絵というものに向かっているにもかかわらず、ついつい過去の絵らしきものに引きづられている。
自分のやれることの限界までやってみようというだけなのだから、何も恐れることはない。自分の見ているものを信じるほか無いはずである。自分の目が水平線を見て、まっすぐであると思えば、それをまっすぐに描くべきだと考えている。
確かにそれだと絵に収まらない。違和感がある。どうすれば良いのかと思いながら、見えている世界に従うしか無いと思う。出来ない理由は自分の技量が不足しているからだ。イネをイネらしく一本づつ描いて絵にならないのもまったく同じ理由だ。
田んぼには水がある。水の底には田面が透けて見える。そこにはこけが生えていたり、虫の開けた穴などがある。その泥からイネは立ち上がり水面を突き抜けて地上に葉を延ばしている。さらに、その水面には空が映り込んでいる。雲が流れて行くこともある。風が田んぼを騒がして、すべてが揺れ動いている。
田んぼという世界は実に複雑で微妙で、写真で性格にその表情をとらえることですら難しい。水の温度、田んぼの土の粘り。イネの葉の切れるような鋭さ。そうした総合として田んぼがある。その田んぼは自分の命を支えてくれる、食料を生産する重要な場でもある。
田んぼを描く以上、そのすべてを描かなければ描いたことには成らない。そのすべてを描く技量が無ければ、描く必要のあることを描くことが出来ないはずである。田んぼの水面は難しいので避けると言うことでは絵にならない。水平線はまっすぐで強すぎたとしても、水平線として描かないわけにはいかない。
何もかもが描ける技量があった上で、何をどう描くのかと言うことになるのだろう。水の透明かと空の透明感は異なる。絵はそれを透明に描くような幼稚なものではない。まったく不透明な絵の具で、不透明に描いているのに、透明な空と、透明な水が描けていなければならない。絵はそういう物だと考えている。
絵というものは置き換える作業である。そうあると言うものをそうあるままに描くのでは、写実である。そうあるものを絵として置き換えて描いて、そのものを自分の眼を通して、それらしく描くのが象徴である。写実を一歩乗り越えるために、水平線は定規で引いた直線では無くなることもある。
ただ、その意味も分からず、そう見えてもいないのに、絵面的にその方が良いと言うことで、絵の中に収まるような味のある水平線を引いて良いのだろうかと考える。まずは、まっすぐに弾くところからではないかと考えたわけだ。まっすぐ引き続けてすべてそれからのことだ。最初から変則的なゆがみから始めては成らない。一直線がいわゆる絵としてはおかしいのは当然であるが、絵はそこからしか始められないという気がしている。
絵が進むと言うことは実に難しいことだ。普通は必ず後退している。他の人の絵を見ると、だいたいの人は年齢と共に後退していることが分かる。自分のことだと分からなくなるだけのことだ。若い頃の人まねをしていて、そのことすら気付かない頃の絵はそこそこ出来上がる事が多い。その時点で評価されると道を誤る。
その結果自分の絵の模写を繰り返している内に、かつてないものを創作するという芸術の方角を失う。よほど新しいことをやったように思っても、大抵は前の絵を越えられない。自分の絵がよく分からなかったときの方がまだましな場合が多い。これは自分の悪口である。
ある程度ましな人は人まねでは無く自分の絵を描こうとする。すると、おもしろくもない絵に普通は成る。その人のが自分の目で見たものだけで絵にするとすれば、それほどの世界観で無いのが当たり前だろう。それを背伸びして立派な風に見せかければ、上っ面だけの画面になる。
つまり絵はここから本物になるかどうかだと思っている。絵は人と競べることなど出来ない。自分の見ている世界があるかどうかだろう。もし、自分の世界が見えるのであれば、その世界がつまらないなどと言うことは無いはずである。それは平凡であれ、特別では無い一人であれ、一人の人間であると言うことは掛け替えのない、ただ事ではないものだと思うからだ。
私という存在が見ている景色は、間違いなく私だけが観ている世界だ。この世界は絵としてしか表すことが出来ない気がする。私の観ている世界を写真でとるようなことは不可能だ。この複雑で、捉えどころの無い、千変万化する眼の前の風景を、観念をふくめて総合としてその存りのまま描くのが絵だ。
見ているものを、在りのままに描くと言うことは、自分の中の記憶や思考の総合で見ていると言うことだ。水は触れば濡れるとか、いまから風がすべてをゆらして行くとか、草いきれの立ちこめた匂いが充満しているとか、現実の眼には見えない物をふくめて描いている。
そう考えれば、まったく水平線がまっすぐで良いかどうかどころではない。まだスタートの立ったばかりである。何も出来ているわけでも無い。これから挑戦して行くと言うだけのことだ。もう一度、目に映る世界を確認して、何をどのように描くのかを考えてみなければ。