ベーシックアセットの福祉国家とは
ベーシックアセットの福祉国家とはどういうものなのだろうか。日本の戦後は北欧型の福祉国家が一つの方角として示されていた。その方向を新自由主義というものが登場して押しつぶしてしまった。能力主義の正義による差別社会が、北欧型福祉社会の価値観を否定したのだ。
宮本太郎と言う大学教授がベーシックアセットを解説している。どうやらベーシックインカムの問題点を克服する考え方のようだ。私自身がベーシックアセット論を理解するために、個人的な勝手な要約を作ってみた。
福祉国家の課題として「例外状況の社会民主主義」「磁力としての新自由主義」「日常的現実の保守主義」という三つの力学の中で、日本における福祉政治(貧困政治・介護政治・育児政治)がいかに希望を失ってきたかを解説している。
同時に、この三つの世界とこれまでの歴史的経緯を無視したかたちで、北欧から理想としての福祉政治を持ち込むことは不可能であることも指摘されている。その上で、福祉政治として「ベーシックアセットの福祉国家」を考えなければならないといしている。
日本では、非正規雇用やフリーランス、ひとり親世帯、低年金高齢者、心身の障害を抱える人などのなかで生活困難が深刻化してきた。建前主義の生活保障の制度が対応できていない。そこにコロナパンディミックが起こり深刻な生活困難を産んでいる。
貧困、介護、育児の分野でより広い支援を謳った施策が様々に導入されてきた。介護保険制度、生活困窮者自立支援制度、子ども子育て支援新制度などである。こうした諸制度は期待された支援を実現できていない。間違っていない施策が実現されない背景には、硬直した行政の問題がある。
「磁力としての新自由主義」と言う言葉を宮本氏は使っている。新自由主義者で無いにもかかわらず、新自由主義的に振り舞わざるを得ない構造が政治の中にある。それが「磁力としての新自由主義」だ。このように宮本氏は説明している。よく分かるところだ。
国と地方が世界一の長期債務を抱えながら、実はこの国の税負担は北欧の福祉国家に比べれば小さい。莫大な債務があっても税制度不信も強いので、税は上げられない状況が続いている。ゆえに小さな政府しか選択肢が残らず、長期債務が膨大化して行く中では、導入された福祉施策は、後から中抜きに成って行く。
結果的に地域では弱者どうしがぎりぎりのところで依存し生活を維持する。引きこもりの50代の息子が80代の老親の年金を頼る。さらには子どもや学生が学業を犠牲にしてケアに携わるヤングケアラーなどである。認知症高齢者が認知症高齢者を介護する認認介護さえ存在する。
いずれの制度からも対象とならない「新しい生活困難層」が急増している。「新しい生活困難層」には、不安定就労の人々、ひとり親世帯、引きこもり、軽度知的障害など多様な人々が含まれるが、共通項は既存の社会保障の支援の枠組みから外れてしまう、という点である。
ベーシックインカムとベーシックサービス
これまでの社会保障が、社会保険と公的扶助の二極構造であった。そして今、「新しい生活困難層」の人々が両機能の間にいわばはまり込み、いずれからの支援も受けられないでいる。
こうした事態に対して、いくつかの提起がなされている。一つはベーシックインカムだ。コロナ禍のなかで、リベラル派はもちろん、ローマ教皇や日本における新自由主義を代表する竹中平蔵氏までがベーシックインカムを唱えている。
ベーシックインカム論は、二極構造のうち、ロビンフッド機能の対象を社会全体に広げようとするものといえる。ロビンフッドにしてみれば、お金をいただくべき高所得層にもお金を配るのは不本意であろうが、後から税で回収して所得移転を実現しようというわけだ。
他方で、ロンドン大学の社会政策学者アンナ・コートらによって、ベーシックサービスという提起もなされている。ベーシックサービスとは、「ベーシック」な公共サービスを誰でも受けられるようにしていくという考え方だ。
日本の現状では、主なサービスは、医療サービス(医療保険)、介護サービス(介護保険)のような形で社会保険に紐付けされている。サービス利用には保険加入が必要だ。保育サービスは、税財源であるがゆえに、消費税増税を主に振り向けるという約束もむなしく、十分な財源確保ができていない。
こうしたなかで、ベーシックサービス論者は、医療や介護のサービスを社会保険の枠を超えて誰にでも届けると主張する。支援が届かない人々が増大するなか、ロビンフッド機能の側から現金給付を広げていくベーシックインカムに対して、逆の社会保険の側からサービス給付を拡大していこうとするのが、ベーシックサービスといえよう。
月8万円のベーシックインカムを1億2000万人に出せば、年間に115兆円が必要であり、現行の社会保障給付の総額がサービス給付を含めて約120兆円であることを考えると、ベーシックインカムはサービスの給付まで侵食してし
まうことになる。
まうことになる。
一方ベーシックアセットとは、この言葉は元々は、フィンランドのデモス・ヘルシンキやカリフォルニア・パロアルトの未来研究所のようなシンクタンクが提起したものだ。まだ発展途上の議論であるという事情もある。
ベーシックアセットは、これからの生活保障が満たすべき条件を大きく表したもので、たとえば「国民全てに毎月8万円のベーシックインカム」といった議論に比べれば、抽象的に聞こえてしまいかねない、ということである。
まずベーシックアセットが抽象的に響く一つの理由が、アセットという言葉の意味であろう。価値のある資源や財のことだ。生活に必要ないろいろをすべてパッケージで提供するのか、というイメージも沸く。
「私・公・共」のアセットとコモンズ
ベーシックアセットとは、「私・公・共」のアセットを指す。ここで私的な資源とは、ベーシックインカムのように現金給付で保障されるもの、公的な資源とは、公共財によるサービス給付で保障されるものである。これに対して、共の資源とはコミュニティのようなコモンズのことだ。
コモンズというのが一番分かりにくいのではないか。コモンズは、誰のものでもないが、誰でもが必要とし、誰にも開かれているがゆえに、誰かが占有してしまいかねない、そんな資源だ。自然環境、ITネットワーク等、いろいろ例が挙がるが、コミュニティ、つまり働き、暮らすことにかかわる様々なつながり。
今日もっとも大切な財に「自尊の社会的基盤」を挙げた。私たちが生きていく上で、自分の存在が認められる他者との関係のなかにあって、自己肯定感を保てることは決定的に重要だ。コミュニティはそのためにも不可欠の財なのである。
「新しい生活困難層」は、多くの場合、制度から排除されることでコミュニティからも排除されてしまっている。たとえば、なんとか働けていたとしても、勤務先では「派遣さん」などと呼ばれ名前も覚えてもらえず、ワンオペ育児で孤立感を強めていたりする。
ベーシックアセットとして「私・公・共」のアセットが問われる。重要なのはこの3つのアセットの関係である。「共」のアセットとしてのコミュニティに参加できる条件をうみだすために、「私・公」のアセットすなわち国や自治体等による現金給付とサービス給付が決定的な役割を果たすのである。
「何を配るか」より「どう配るか」
ベーシックアセットは、ベーシックインカムやベーシックサービスのように「何をどれだけ配るか」より、「どう配るか」と「何を可能にするか」を示そうとするビジョンなのである。そしてそれぞれの事情に応じた最適な給付の実現で、コミュニティともつながることを可能にする、というのがその目標である。
宮本太郎
1958年東京都生まれ。中央大学法学部教授。