絵はここからという思い。

   



 水彩人展に出品して、気持ちが一区切りになる。やっと絵の始まりまでやって来たような気分である。絵画空間をつくる自分の水彩画技術のようなものが、いくらか備わってきたような気がしている。随分長くかかったと思うが、自己流でやると言うことは遠回りなのだと思う。

 でも誰かに教わった技術では無いと言うことは自分にとっては良かった。試行錯誤の長い年月をかけてすこしづつ発見して、積み重ねてきたものだという自負と安心のようなものはある。人まねが嫌いというような、性癖のためそうなったわけだが、それは悪い事ではなかった。

 評価も特段されなかったわけだが、褒められた自分というものを引きづることもなく、何をやるとしても自由な地点に、今いられるのは悪くはない。ここから始められるのだ。まだ絵を描く体力と気力はある。なんとしても自分の絵と言えるところまで行きたいものだ。

 この4ヶ月は毎日田んぼに出かけて行き、田んぼのそばでアトリエカーを止めて、絵を描いている。窓から見える風景を描くこともある。前に描いた絵の続きを描くこともある。思い出す風景を描いていることもある。そのやり方もバラバラである。思いついたようにやっている。いつものやり方というものが出来てくることは無い。

 思い出の中の風景を描くと言うことは不思議なようなことだが、いままで同じ所を何度でも描くと言うやり方で、絵を描いてきた。その描いた場所は見ているのと同じように頭の中にある。その頭の中にある風景を描きながら、目の前の風景をまぜこぜにして見ているようだ。

 石垣島でも10カ所ぐらいは覚えてしまった景色がある。同じ場所で50回ぐらい見ながら描いた場所である。覚えてしまってもそこに行って描いても良いのだが、その景色を思い出しながら、頭の中の景色にしている。と言っても海やら空やら樹木やら、目の前にあるものを描いてもいる。特に空間の感じは頭の中よりも見て描きたくなる。

 目の前にある風景を描いているにしても、目の前の風景には人には思えないだろうと思う。何故そうなるのか分からないが、ここに島がある法がいいと思えば、島を作りたくなる。海がある法がいいと思えば海にしてしまう。その海は、あそこから見た海にしようとか。その島は瀬戸内海で見た島にしようとか言うことになる。

 まるでデタラメな描き方であると思う。出来ることをやっていたらこういうことになった。自分の絵に至るみちなのだから成り行きにしたがうことが良いと思っている。やれることをやりたいようにやってみる以外にない。

 先日も石垣島の畑の絵を描き始めたら、いつの間にか、志賀高原の楽天地公園の絵になっていた。あそこはもう廃墟化していたから、今は存在しない風景なのだろう。でも記憶の中には鮮明に残っている。特にあそこの場所に回り巡っていた明るい光は、忘れない。

 人間は記憶と現実をない交ぜにしながら見ているのではないだろうか。西表島を見ていても、瀬戸内海の島や、能登島を見た記憶と重なる。その思い起こされてきたものにしたがっている。海を描いていたらば、どうしても根府川で描いた海や、下田で描いた海が現われる。

 石垣島で描いているから、石垣島の海を描いていると言うつもりでも無い。自分の海を探して描いている。石垣島の海を説明しているわけでは無い。もちろん写しているわけでは無い。海というものを私が見ているものを描こうとしている。

 下田の東急ホテルの庭の絵はよく描いた。立派なホテルで私がいつも泊まるホテルよりも大分ランクが上のホテルなのだが、そこにサービス価格で泊まれるカードに入っていたから、宿泊させて貰っていた。窓から庭と海が描けるからだ。そのホテルの南国風の庭の記憶が、何故か石垣に来て思い出される。

 石垣のホテルにはあんな南国風の庭は無い。南国風というのはハワイなのだろうか。よく分からないのだが、石垣でヤシの木を描いているといつの間にか、下田のホテルの庭になっている。その時に応じて従っているのだから、それでいいのだが、人に石垣島のどこのホテルかと聞かれて説明には窮する。

 たぶん、自分の記憶の中の海を描いている。空を描いている。その描き方はその時々に発見して描いている。前に描いた方法には従わない。実にインチキっぽいことのようでもあるが、自分というものにできる限り従おうと考えるとそういうことに成ってきた。自分というもののいい加減さがそうしたおかしな事を起しているのだろう。おかしいことをふくめて自分だからそれでいい。

 シャガールのように、自分の幻想の中で描くということが、シャガールの世界観に繋がる。それほどでは無いが、自分の頭の中と目の前の風景がごちゃ混ぜになりながら、自分の楽観に近づけばと考えている。それが自分の救いなのかもしれない。どうしようも無い現実を踏まえれば踏まえるほど、楽観としての風景がある。

 人間はそのままで受け入れられるという楽観である。これは今そういう絵を描いているというのでは無い。それで絵はいいじゃ無いかという思いだ。私が絵を描くのは絵によって自分の存在が許されると言う意味である。
楽観が絵に現われればもうそれでいいという気がする。

 立派な良い絵を描く自分であるから許されると、ゴッホは考えたかもしれない。そんな大それた事では無く、自分というものにいたる道を歩み続ければ、どれほどちんけな自分であってもそれで十分であると言う意味の承認である。

 ただひたすらに自分の楽観に向かう。その痕跡が絵となる。ここが乞食禅の卑しいところだが、卑しいものであるのに、卑しくないと偽るよりもましである。それしか出来ないのが自分であるのなら、その道を歩むほか無い。一段劣っているから生きていけないと言うことは無い。他と比べて生きることなく、生きて行く。

 - 水彩画