どの位置から歴史を見るのか。

   



 台湾の小説を読んでいて、その奥の深い屈折した世界に魅了された。80年代の台湾の小説を中心に読んだ。実に時空が複層的なのだ。常に視点というものが動いている。その複雑な構造にむだがなく、そうでなければ表現できない世界観である。日本で言えば内田百閒 が思い出された。違いは血が出ているような現実の話である。

 それは歴史の悲惨な状況から来ている。16世紀までは中国の辺境の島という扱い。16世紀大航海時代に入りまずオランダ、そしてスペインが進出。両国が先頭を交えた結果、オランダが台湾を植民地からする。中国は当時明の時代で内戦が続き疲弊していて、台湾については考える余裕も無かった。

 1658年、 永暦帝を擁して清と戦ったた鄭成功は敗退し、勢力を立て直すため、1661年に澎湖諸島を占領し、1662年にはオランダの拠点だったゼーランディア城を占領して、鄭氏政権を台湾を建国。 漢民族による初の政権 として台湾では尊敬されている。

 その後清が勝利しその支配下となる。しかし、清は台湾を軽んじて重きを置くことがない。福建省や広東省から渡ってきた漢民族の移住者たちによって台湾開発が進められることになるが、男もそうなのだが、特に女性の移住が禁止されていたために、現地の原住民族と、中国人との混血が急速に進み台湾人が形成される。その人達が本省人と呼ばれることになる。

 1894年に清が「日清戦争」で日本に敗れた結果、締結された「下関条約」に従い、台湾は澎湖諸島とともに日本に割譲されることになる。日本への割譲に反対する勢力が、台湾民主国の建国を宣言するものの、敗れて崩壊。1896年、台湾総督府を中心とする日本の統治体制が確立される。

 1945年、日本の敗戦により、50年間続いた日本統治時代が終了する 。終戦後、台湾には蒋介石率いる国民党軍が進駐し、台湾は中華民国の領土に編入される。行政を担うために新設された台湾行政公所の要職は「外省人」と呼ばれる新たに台湾にやってきた人々によって占拠され、もともと台湾に住んでいた「本省人」は排除される。

 これに反発した本省人は、1947年2月28日に蜂起する。「二・二八事件」と呼ばれる。蒋介石は徹底的な弾圧にはしり、数万人を無差別に処刑。台湾に恐怖政治を行うことになる。こうして最後に来た国民党軍と共産党支配を恐れて中国本土を脱出した人達が台湾を支配する。

 そして、経済の高度成長に伴い台湾国としての自身と成熟が生まれる。徐々に民主国家へと変わって行く。その役割は先日亡くなられた、李登輝氏の類い希な政治力と歴史観に寄るところが大きい。アメリカとソ連が冷戦状態のなか、西側陣営は、台湾を東側陣営に対する防衛線とみなします。台湾にはアメリカから潤沢な援助がおこなわれる。

 「ベトナム戦争」の際も、アメリカは台湾から軍需物資を調達し、台湾経済が潤っていきます。しかし、アメリカと中華人民共和国の間に国交が樹立されると、台湾は国連からも追放されることになり、アメリカや日本と国交を断絶することになる。

 しかし、世界から追放されたにもかかわらず、台湾は巧みな経済政策と教育の成果によって、めざましい経済発展を遂げる。民主化を進めた李登輝が、台湾で初めての総統民選を実施。2000年の総統選では民進党の陳水扁が選出され、政権交代が実現する。

 簡単に調べてみたわけだが、何とも大変な歴史を背負った国だと言うことが分かる。台湾の人にも、日本の植民地時代のひどい弾圧や皇民化施策から来る反日感情はあるが、しかし朝鮮ほどでは無い。それはこの複雑な歴史に由来するのだと思う。日本を批判したところで、何も変わらない。それくらいならば、良い所を評価した方が台湾の未来のためという意識がある。

 台湾での植民地政策が、朝鮮より良かったというわけでは無い。日本もひどかったのだが、それ以上に過酷な恐怖政治が行われたため、日本のひどさが特出しないと言うことに過ぎない。日本はこのことを自覚できないような脳天気な国なので、その点がとても心配である。

 その意味では中国では南京大虐殺30万人というような、教育が今でも徹底して行われている。虐殺展示館もある。しかし、中国共産党と国民党との間の内戦で行われた住民の虐殺は、それ以上の大虐殺が繰り返されたもので、過去に例の無いほど悲惨な戦争を同じ民族間で行うという、すさまじいものであった。

 同じ中国人どおしが内戦に於いて、何十万人もの住民を封鎖して飢え死にさせている。逃げようとすれば、銃撃で殺してしまう。共産軍に殺されてしまう同じ中国人の住民。内戦で死んだ数は日中戦争以上と言われている。しかし、そのことは一切教育の中では取り上げられていない。しかし、政府が隠したところで、そのことは誰よりも中国人は自覚している。

 戦争というものは見る視点によって違って見える。台湾の原住民の視点。台湾の本省人の視点。台湾の外省人の視点。戦争の真実は一つであるが、人間の感性は様々なかたちでそれを受け取る。だから、台湾の文学は複層的で深い。

 中国の人達もどんな教育を受けようとも、さらに複層的な視点があるのではないかと思う。日本人の単線型思考とは違う。息子が2人いたら、一人は共産軍に、
一人は国民党軍に入れる。それだけ複雑な歴史のある中国である。それが今習近平による、新しい実験の中にいる。資本主義の限界を超えようという実験なのかもしれない。

 最近アイドルの拝金主義がやり玉に挙がっているという。同感である。AKBの握手券のために、若者達に何百枚というCDを購入競争をさせることは、まともな会社であれば道義的には行うべき事では無い。しかし、それが出来ない国が日本である。その批判すら現われない。

 中国習近平政権は「共同富裕 」という大企業に寄付を要請している。自己本位の経営を止めさせる為だという。企業は人民のためにあると言うことなのだろう。社会主義国なのだから当然とも言える。これも是非日本でもやって欲しいことだが、できない。こうした資本主義の限界を超える。拝金主義や、能力主義を越える努力は、是非ともその結果を見てみたいと思っている。

 中国でも本来であれば、文学が生まれておかしくはない。しかし、表現の自由が制限されている。そのために魯迅のような文学は現われていない。もし、中国が本当の社会主義国家になれるとすれば、自由の問題だろう。自由が制限された社会主義などない。中国人も自由というものの価値は、強く意識している。今は自由な社会への道程という意識。

 このところ、台湾の現代小説を読み始めている。日本の現代小説に比べて見たいと思っている。日本の今の小説は、ビニールの皮膜がある。社会というものが無いかのようだ。個人の中の堂々巡りだけが歯ごたえになる。骨格というような構えが無い。

 だからダメというような意味では無いのだが。社会という視点が生まれない。あくまで個人の立ち位置からの単線の視点。社会という物がでてくるととつぜん観念的なものになってしまい、文学としては成立してないように思える。

 今の台湾の小説を読めば、今の台湾がどういう国に向かっているのかが少し分かるのではないかと考えている。80年代の台湾がエネルギーのある国であったことが文学から感じられた。結局の所国というものは人間なのだと思う。やはり中国人というものは中々すごい人達だ。

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