オリンピックのデタラメ

   



 昨夜は東京オリンピックの開会式があった。見ようとは思わなかった。その責任者が前日になって、ユダヤ人のホロコースト問題で止めさせられた。もう何をか況んやだ。その人を選んだ組織委員会が、なんとひとりひとりを選んでいない。とい直っている。

 日本の国としての責任と言うことを分かっていない。オリンピック開催に伴い、日本はどれほど国の威信を傷つけたかとおもう。まともにオリンピックを開催できない国であることを世界に知らしめた。懸命に努力してきた選手に申し訳が立たないだろう。

 オリンピック人事では五人目の、突然の辞任が起きた。責任は元森会長にある。まあ、当人も失言の責任を取って止めさせられた人なのだから六人目とも言える。人事が人物調査が無く行われたと言うほか無い。つくづく、日本がダメになってきたことを痛感する。

 この程度の事を見落としていたのかと情けなさが湧いてくる。責任者など居ないような態勢なのだろう。オリンピックやるという意味が分かっていない。オリンピック精神に相応しくない人を使うというのはあっては成らない。誰が考えても当たり前すぎることだろう。その前提を全く忘れていたと言うほか無い。

 すべての関係者にまずオリンピック憲章を配り、毎朝一度読み上げさせる必要がある。オリンピックを何故開くかが理解できていない。オリンピックで金がもらえれば良いというようなことでは無いのだ。もしそんなつもりで仕事をしているなら、まったく選手に対して失礼である。

 組織には人事審査部署が無かったと言うことだ。ただ、した受けの電通のような企業からの推薦をはいはいと受け入れたに違いない。日本のエンターテイメントのレベルの高さを見せれば良いという考えだろう。丸投げして置いて言い訳ではたまらない。

 この直前の準備状況を見ると、ますますオリンピックが心配になってくる。公的機関のレベルは下請け頼りで、ここまで落ちたと言うほか無い。いままでなら、当たり前と思われたことが出来なくなっているのだ。

 それで済まされてきた象徴が、防衛省副大臣である。 この人のツイッターにホロコースト問題を進言する人があった。自民党の中山泰秀防衛副大臣が国際的なユダヤ人権団体サイモン・ヴィーゼンタール・センター に〝通報〟していたことが明らかになった。

 なぜ、日本のJOCに連絡せず、アメリカの団体に進言した。どこかおかしくなってきている。防衛省では属国意識でアメリカに進言する習慣があるのだろうか。日本の安全保障も怪しいと言わざる得ない。

 この程度のことに目の届く人は居なかったのか。ため息が出てしまう。あの事務局長武藤敏郎氏はなんと、昔の障害者虐めを自慢げに語ったという、作曲家を、反省しているので問題ないとして、辞任させないことを発表した。この感覚のずれに一番驚いた。瞬時に正しく判断することができない。

 辞任させないでも納めらてしまおう、と言う甘い判断しか持ち合わせていない、元高級官僚。オリンピックというものを間違って考えていると言うことだ。昔の話だからかまわないとでも思ったのかもしれない。問題はそうではないのだ。音楽家としてのインタビューの中で自慢げに語り、謝罪行為が無いままきているような人間が、オリンピックは関わっては成らないのだ。

 武藤事務局長は大蔵官僚で、東大の客員教授。日本のエリート官僚である。その判断力の高いはずの人が、こんな間違った判断をしてしまって良いのだろうか。佐川局長を見れば、忖度以外の判断力など失われているとしか言いようが無い。

 オリンピックと同時にパラリンピックを開催するのかの意味を理解しなければならない。前回の東京オリンピックの時より始まったことだ。オリンピックにパラリンピックが含まれたのは人類の理想を確認する、平和の祭典だからなのだ。

 金儲けや国威発揚が目的では無いのだ。政府に理解している人はいないのだろう。オリンピックで一儲けしようという人達にお願いして、形だけを見せかけようというのが、政府の姿勢である。政府が組織作りをするだけの能力がない。

 経済効果や、利権ばかりに目を奪われている人達には、オリンピックの本来の目的をもういちど思い起こして欲しい。前回の東京オリンピックではプロ選手は出場できなかったのだ。あの頃日本にはプロサッカーが無かった。だから日本サッカーがメダルを取れたのだ。

 前回の東京オリンピックでは、アマチィアリズムとオリンピックなどという理想主義が語られていた。今は金儲けのために、スポーツをやって何がおかしいのかという時代に変わった。日本新記録を出したら1億円と言うことが、果たしてまともなことと言えるのだろうか。選手に対してニンジン馬でいいのか。

 今の時代一番金儲けに熱心なのが、IOC国際オリンピック競技会と言われている。バッハ会長の拝金主義は大変なものらしい。日本もそこに巻き込まれてしまった。スポーツ界や選手には人間として純粋なものを持っている人も多数存在する。それを汚してしまったのが拝金主義の社会なのだろう。

 人間が何のためにスポーツをするのかの根本を考える必要がある。そして、人類の祭典として、何故オリンピックがあるのかを考えるべきだ。その理由はオリンピック憲章の中に示されている。いつもこの原点に戻ることだ。 

「オリンピズムは肉体と意志と精神のすべての資質を高め、バランスよく結合させる生き方の哲学である。オリンピズムはスポーツを文化、教育と融合させ、生き方の創造を探求するものである。その生き方は努力する喜び、良い模範であることの教育的価値、社会的な責任、さらに普遍的で根本的な倫理規範の尊重を基盤とする」

 さらに「オリンピズムの目的は、人間の尊厳の保持に重きを置く平和な社会の推進を目指すために、人類の調和のとれた発展にスポーツを役立てることである」このように書かれている。

 渡辺直美さんを揶揄したような演出の提案が問題になって、禅演出責任者が辞任。そして引き継いだ演出家が又辞任。どちらも人権意識の欠落である。こうして、オリンピック委員会は世界に日本の人権意識の低さをさらした。悲しいオリンピックにしてしまった。

 人権という意味で、日本は変わって行かなければならない。今のままでは人権意識の極めて低い国だという認識を持たなければならない。オリンピックで、権意識の低さを露呈した以上、この機会に日本人は変わらなければならない。

 人権教育が行われていないところに原因がある。学校教育の中で、日本の戦争責任の問題が正面から取り扱われていない。原爆の被害者意識は生まれるとしても、アジア各国への加害者意識は育っていない。従軍慰安婦問題にしても、過去のこととして風化させようとするから、韓国の反発は収まらないのだ。

 日本は帝国主義の侵略戦争を行い、近隣諸国に1000万人の死者を出したという、深刻な被害を与えた。この深刻な加害を、深く反省するところからしか、日本の人権意識の再出発など無い。このみじめな東京オリンピックをその反省の機会にする以外にない。
 

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