よく生きるための学び方

   



 よく生きるためには、学習しなければならない。自分の能力などしれている。人間は教わることがどれだけできるかだと思っている。学ぶことのできる人と、できない人が居る。学び上手な人は成長ができる。

 ともかく何事も相談をすることにしている。聞けば分かることが多いものだ。聞くは一時の恥と言うが、聞くことができると言うことは一時の恥どころか素晴らしいことだ。できるだけ、聞き上手になり謙虚に話を受け入れる。充分聞いて学んで考える。

 そして、いいと思える事はともかく続ける。少しぐらいだめでも良くなるまで続ける。結果の善悪などは、実は生きることの本質には関係が無い。継続できることが学ぶためには重要だと思っている。これがよく生きるための学び方だ。

 動禅体操をしていると、出来ない動きがある。立ち魚体操は10秒と続かない。出来ないながら何とかやっていると、一年くらい続ければ大抵の動きは出来るようになっているはずである。出来ることだけやるより、出来ないことを続けることが重要である。

 1年でだめなら、2年やればいい。それでもだめなら3年やればいいだけである。出来ないことがあると言うのは、目標をもらえたわけでむしろ良いことを始めたことになる。進歩を感じられる内はまだ大丈夫だと思い、出来ないでも続ける。立ち魚運動は3ヶ月ぐらいは毎日続けているが、まだ10秒と出来ない。いつ出来るのかと楽しんで続けている。

 この出来ないと言うことをありがたいと思い続けている。まだ獲得しなければいけない弱いところがあると言うことだ。立ち魚運動は体幹の運動である。体幹が衰えていると言うことだ。それで出来ないにちがいない。体幹が弱いところがあり、それを強化できると言うことは有り難い。

 はじめて水牛の世話をしている。とつぜん水牛を飼うことに成教わらなければ教わらなければ困るのでは無かろうか。水牛の飼い方など、インターネットで探したって出てこない。相手は生き物である。頼まれた以上人任せには出来ない。全力でやるほかに。責任を持つと言うことは悪いことではない。

 水牛をどのように世話をするかはよく見ることから行っている。何を好み、何を嫌がるのか。何を食べて、水はどのくらい飲むのか。分かっていそうな人には何でも聞いている。兄は牛の専門家なので、色々電話で教えてもらっている。

 この機会に水牛が飼えるくらいの学習をしようと思っている。先ずは水牛とできるだけ長時間一緒に居て、見ていることだ。糞はどういうときにするか。一日何回ぐらいか。状態はどのようなものか。尿はどういうときどのくらいするのか。

 草を沢山食べるが、一日どのくらい食べるのか。生草だけ食べていて大丈夫なものか。暑さに対してはどうしたら良いか。水の中は好きだが、どのくらい入れておけば良いか。田んぼに日に一度は入れて泥浴びはさせたほうが良いのか。

 川に一時間入れてやり、その後泥浴びをしてから、夕食。人が見ているとよく食べる。食べるときに少し不安があるようだ。一匹でいるから、外界に対して緊張があり、人が居ると安心できるので、この間に餌を食べようとするのかもしれない。人がエサを持ってきてくれて食べるという習慣のせいかもしれない。

 配合飼料を与えていたのだろうか。水を飲む量が以前より大分減った。草だけを食べているので、水分量が7~80%はあるだろう。草を一日50キロ食べれば、35リットル水を飲んだことになる。それにしても草の餌だけ食べていて、痩せないものだろうか。

 虫に刺されるようだ。血が出ていることがある。アブやダニが刺すのだろう。フィラリアのような病気にならないものだろうか。お腹の方が刺されないように、泥浴びをさせる必要がある。ワクチンはしているのだろうか。水牛が南の石垣島で家畜になり、赤牛が日本本土では家畜になった。

 どこかへ逃げて行きたいと言うことは無いようだ。今居る場所で満足しているようだ。他の牛のいる家に帰りたいと言うことは無いらしい。私のことをいくらか覚えて、帰ろうとすると、あわてて寄ってきたりすることもある。食べている間はついていた方が良いようだ。

 いつもはむしろ離れたところに居ようとして、呼んでも寄ってくることは無い。ただ、車の音を聞くと林の中から顔を出すところを見ると、分かってはいるようだ。犬や猫とは違い素っ気ない態度ではあるが、人間との関係はかなり強い。

 よく見ていれば様々分かってくることがある。観察である。観察する能力が学習能力である。こうして新しいことを学ぶと言うことは、自分をみがくことだ。こんなに大きな動物の責任が持てると言うことがうれしい。この学習の機会を生かしたい。

 自分という人間が新しいことに広がっていることだ。新しいことで自分が鍛えられている。何でもやってみない限り分からない。頭で理解したことと、自分の行動でやることとははっきりと違う。観念で理解するより、身体が理解しなければ自分のものにはならない。

 自分のものになったか成らない
かは絵を描いてみれば分かる。昔、房総に小シャモに熱を入れあげていた、シャモ太郎と自称する人が居た。素晴らしい小シャモをどこの品評会につれてきていた。この人が私が絵を描くと言うことを知って、俺の理想とする小シャモは間違っても絵には描けないと言っていた。

 この感じはよく分かった。入れあげて、この人だけが見えている小シャモの姿がある。見るというのはそれほど奥の深いことなのだ。自分の命をすべて小シャモに賭けてしまい、初めて見えてくる世界があるから、そこまで小シャモに入れあげられるのだろう。らんちゅうだって、水牛だって少しも変わらない。

 風景に入れあげなければ、風景を描くことなど出来ないと言うことである。田んぼに入れあげなければ、田んぼなど描けないと言うことである。石垣島には英太郎さんという田んぼに入れあげている人が居る。この人の栽培を聞いていると、田んぼが見えていると言うことがよく分かる。

 今石垣島の田んぼを必死で学んでいる。30名もの人が、本気で見ている。よく田んぼ一枚一枚が違うと言うことが言われる。人に言われたくない農家の人がよく言う言葉である。そして、それならここでやって見ろと言うことになる。

 田んぼは違うと言うことはよく分かるが、イネはイネである。どこでも通ずる方法がある。それを見つけてやらなれないとしたら本当の技術になっていないと言うことだろう。技術というものは再現性があり、どこであれ通用しなければならない。

 石垣島で畝取りできるところまでやってみたいものだ。何が障害になっているのか。品種は何が良いのか。今回ひとめぼれでやっている。私の技術には正直向かない品種である。どう考えても、これほど暑いところの8月1日の田植えではひとめぼれでは完全とは行かないだろう。夜温が二九度から下がらない場所で、ひとめぼれが充分に実ることは無いだろう。

 こうして、新しいことに挑戦させてもらえることは行きが掛かりではあるが、やはり実に刺激的だ。いままで学習したものを総動員して、イネ作りが出来る。水牛の世話をさせてもらえる。幸せに違いない。と言っても田んぼで絵を描いているだけなのであるが。

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