連絡はメールにするか、フェースブックにするか。
石垣島田んぼの会の連絡をメールで続けるか、あるいはフェースブックに帰る方が良いのか、迷っていた。それで参加者の皆さんにどちらが良いか聞いたところ、半々ぐらいだった。だとするとメールで作業連絡はすることにした。
ほとんどの連絡はメールで行っている。電話は一応あるのだが、滅多に使うことはない。理由はいくつもあるのだが、メールが一番誤解が無いからメールを使うことにしている。仕事が進んでから、話が違うという人には過去メールを読んで貰い、誤解を解くことが出来る。
メールは記録がお互いに残るから、実に合理的だと思っている。電話であれば、互いに録音していると言うことはめったに無いから、後から確認することが出来ない。確認できないとどこかで誤解が起こり、解決できないことが出てくる。メール連絡は実に有り難い。
その上、電話は相手の時間を中断させることになる。絵を描いているときに電話が掛かってくると、中断されるだけで無く、元の状態に戻れなくなることもままある。その点メールであれば、一呼吸入れるときに確認することが出来る。そして、適時返信がメールで出来る。電話の方が面倒で無いという人も居るのだろうが、受け手のことを考えればメールでは無いだろうか。
今度フェースブックというものを始めたが、これはブログとはかなり違う。メールとブログの間ぐらいのものか。ツイッターとか、SNSとか言うものもあるようだが、たぶんこれも違うものになるのだろう。公開日記というものがブログだと最初に教わったが、ブログとは相性が良かった。自分の考えを整理するためにはブログが良い。
ホームページというものもやっていて、それはブログに書いたものを保管する場所にしている。いつかホームページに絵をきちっと入れたいと思っている。今のところなかなかそこまではできないでいる。まず写真をきちっと撮り直すことが出来ない。
メールというものは伝言のようなものである。要件を伝達することに優れたものだと思う。メールに書くことで要件じたいが整理される。フェースブックは報告には良いのではないか。ただ、業務連絡には向いていないかもしれない。まだ十分には分かっていないのだが。
メールは訓練が居る。考えていることを言葉にする、文章にする事は大切である。頭が整理される。しかしそのためには練習が必要である。文章にしながら考える訓練をすれば、自分の曖昧さも整理されて行く。人と伝達をするためには言葉化する訓練が必要だ。そのためにもメールは優れた伝達法だと思う。
問題点から考える人がいる。到達する地点では無く、失敗する可能性から考えてしまう人のばあい、なかなか自分の考えは表明しない。表明すれば水を差すことになるから言いにくいのではなかろうか。大勢に水を差したくないが、問題点はあれこれ見えている。
こうしたときにメールで意見を書いてみれば、自分の考えている問題点や、自分が意見を表明したくない理由が見えてくる。ともかくメールに書いてしまえば、その考えは変えられないものになる。変えられない形で意見を考えると言うことが大切なのだと思う。
メールが誤解されるからいやという理由の中にはメールで自分の意見を特定されるのが嫌だと言うことが多いのだろう。誰々も言っていたとか、あの人もそう考えているはずだというようなことはメールには書けない。日本人の中にまだ残っている、遠慮する気持ちや、恥の文化なのかもしれない。間違ったことを文章化して、残してしまい恥をかきたくないということもあるのかもしれない。
これは絵の批評などではいっそう問題になる。言葉での批評も、文章でも同じであるにもかかわらず、文章は残るから嫌だと言うことになる。それは自分の絵画観を言葉にしていない人が多い。絵に対する批評は命がけのものだ。絵はその人にとって命と言っても良いくらい重要なものだと思うからだ。それだからこそ感じたことは文章で伝えるべきだと思っている。
絵のことは言葉には出来ないと多くの絵く人が言う。だから絵を描いているのだという人も居る。本当に自分の絵のことを言葉にする努力をしないで良いのだろうか。感性で書いていて、頭で絵を描いている訳ではないと言うことなのかもしれないが、それならそう言葉にすればいいわけだ。
言葉化してみることが大切なのだと思う。頭の中にあるものを文章にしてみることによって、自分が絵を描く上で何を考えているのかが徐々に見えてくる。文章が絵を描く邪魔になるどころか、必ず絵を一歩進める役割を持つはずだ。
こういうことは私の絵が少しでも良くなったときに書かなければ、何の意味も無いので残念である。それでも、自分の模倣などやらずに、未来の自分に向かって描いている。だめな絵であるかもしれないが、もう少し先に良くなると思って、言葉にしながら絵を描いている。ますます、説得力が無いか。
たいていの場合、白か黒かではなく灰色なのだろう。多くの場合、灰色では結論が出ない。灰色で行くというのでは決められないと言うことになる。この灰色変えでは多い。絵が進まないことになる。進まなくても良いこともあれば、進めざる得ないこともある。
良い文章は分からないことを「このように分からない」と書くことが出来る。結論では無く問題点を問題点として表現できるところが、文章のすばらしいところだ。文章はまさに問題点を明確にすることが出来る方法である。だから言葉にしながら絵を描く必要があると思っている。
絵は職人仕事ではないのだ。注文仕事でも無い。自分の中の未知を掘り起こして行く仕事だ。未だかつてないものを探す仕事だ。繰返し言葉化しながら進む以外に方法はないと思っている。描くことの中にある矛盾を暴くのは言葉だ。
これはインターネットでも同様である。ブログで考えを公開しておけば、自分で分からなくなれば、そこに立ち戻り確認が出来る。自分が一年前に考えていたことなど、案外分からなくなっているものだ。公開しながら考えると言うことは重要だと思っている。
こうしてメールとフェースブックのことを書いてみて、自分が文章に期待しているものが少し確認できた。あらゆる手段を持って、自分の観ている世界に迫ることだ。それが私絵画に迫ると言うことだろう。
そう、連絡はメールにすることにした。メールを希望する人が居る以上、メールで作業連絡はする。フェースブックは活動報告と言うことになる。もしそうであるならば、非公開にしておく必要も無いのかもしれない。検討して行こう。