まだ石垣島で田んぼが借りられない

   



 田んぼを始める場合、なんといっても一番難しいというのが、田んぼを借りることである。小田原でも田んぼを借りると言うことに一番神経を使ってきた。まして、石垣島という農業の盛んな地域である。なかなか貸してもらえない。

 農家にとって田んぼは他の農地とは少し気持ちが違う。ミカン畑も田んぼも同じように見えるが、貸借と言うことになると違う。主食を作る場と言うことと、貴重な水が使える場所と言うことがあるのだろう。

 石垣島で一度貸してくれることになっていた田んぼが、とつぜん貸せないという話に変わった。びっくりしたがこうしたことは珍しいことではない。農家の方が田んぼを貸すという意味はかなり重いことなのだ。石垣島にはまだそうした田んぼへの思いが残っていると感じた。

 この田んぼに対する特別な意識が残っていると言うことが、田んぼを維持している原動力になっている。すばらしいことだと思う。まだ石垣島の田んぼは大丈夫という証でもある。田んぼを維持している方に、田んぼを守って行くという思いがあると言うことが想像される。

 この間田んぼで作業されている方に色々お話を伺った。すべての方が、私より年齢の上の方か、同年配の方であった。石垣の田んぼ作業は厳しいと言うことを言われていた。暑さがやはり一番大変なようだ。耕作が難しいと言うことも言われていた。

 そのほか色々田んぼに関する情報を得ることが出来た。簡単には借りられるものではないと言うことも言われていた。何故あそこが耕作されずに荒れているのかと伺うと、様々事情があるらしい。地主さんが石垣に居ない事もあるらしい。

 田んぼの貸し借りについて、実情が知りたいと思い、農業委員会に田んぼを貸してくれるところがあるかを聞きに行った。一つわかったことは農業委員会では、簡単によそ者には田んぼを貸さないと言うことになっているようだ。当然と言えば当然である。

 貸したいという話が出たときには、その田んぼの周囲の方に情報を流し、優先して借りられるようにしているらしい。田んぼを耕作される人が集積された方が良いからである。当然の配慮だろう。田んぼは繋がっているから、一部によそからきたものが入るのでは、うまくないというのも当然かと思う。

 石垣島では五反の農地を購入するか、借りなければ、農地の貸借も売買もできないと言う条件になっている。これも普通のことだと思う。最低でもそのくらいやらなければ、農家になると言うことにはならない。農家でない人には農地を使わせないと言うことは、厳密に決まっているようだ。

 この辺は小田原とは少し違っている。耕作放棄地に対する、行政としての深刻さの認識から来ているのではないだろうか。耕作放棄地が限界を超えて増え始めてから、あわてると言うことになるのだろう。まだ石垣ではそれほどでもないと言うことのようだ。

 では現実には石垣島で田んぼは耕作放棄地がないかと言えば、そうでも無い状況がある。地域にもよるが、田んぼで耕作放棄されている場所はそれなりに目立つ。小田原とそうは変わらない状況だと見える。石垣の場合、草地への転用。サトウキビの転用が目立つ。この辺が赤土の流出に繋がっているのだろう。

 みやぎ米屋さんが20ヘクタールの田んぼを借りて耕作されている。貸したい人がいれば借りますという新聞広告を出していた。去年あたりからそれは出していない。20ヘクタール借りたことで田んぼ面積の減少は止まっていた。そして、みやぎ米屋さんが去年から借りることを積極的に行わなくなって、田んぼ面積は減少したと言われていた。

 みやぎ米屋さんはITによる水管理システムの導入。ドローンによる直まき栽培の試みなど、積極的に新しい農業を模索している。そしてお米屋さんとしての販売力もある。生産から販売までの一貫した立派な経営方針がある。今後もさらに広げてくれれば有り難いことだ。

 今後みやぎ米屋さんが20ヘクタールからさらに集積をして行くことになるのかが石垣島における、稲作にとっては一つの鍵になるのかもしれない。石垣島にも大規模化して成果が出る田んぼはある。大規模農業を目指す田んぼとそれ以外の基盤整備されていない田んぼを分けて考えるべきなのかもしれない。

 基盤整備されていない田んぼの場合、面積が小さいことや水管理が難しいためにどうしても、田んぼでなくなる確率が高い。すでにそうした現象は起こり始めているように見える。経営に困難な田んぼから耕作放棄されるのが普通のことである。

 大規模農家にとっては条件の悪い田んぼこそ、市民が耕作する田んぼと言えるのではないか。1人の自給の田んぼが2畝としても、100人の自給であれば、2ヘクタールというそれなりの大きさになる。消して小さな数字ではないとおもう。そうした小さな自給の田んぼの石垣島でのやり方を模索してみたい。

 昨日、EM農法で長年田んぼをやられていた方にお会いした。なんと鶴川のキリスト教の農業伝習施設で学ばれた方だった。アジア学院の前身のものである。ここの初期の立ち上げに関わられた高橋牧師さんが小田原協会におられた
。その方とは路上生活接点があった。接点があった。どうも知り合いだったらしい。

 石垣では実に様々な方が農業をされている。この厳しい農業のなかで、実践されてきた力がある。考え方も芯が通っている。ただこの世代の方々がやれるのもあと5年という感じである。次の世代の方は畜産や果樹の方が多い。やはり田んぼの未来は厳しいものがありそうだ。

 石垣では田んぼはやらないと決めてきたことではあったが、何故か田んぼを探している。田んぼを探しながら、やはり田んぼを見る眼が変わった。それは絵にも影響している気がする。かなり距離が近くなったようだ。今日も絵を描きに行き、田んぼの方と話をしてみよう。
 

 - 「ちいさな田んぼのイネづくり」