2拠点生活小田原3週間
舟原ため池のカキツバタ。50輪ぐらいが咲いている。ため池の風景とカキツバタは調和している。やっと見ごたえが出てきた。花が終わった時も植え替え時期と書いてある。今度小田原に行った時に混んでいる株を株分けした方がいいかもしれない。
無事、小田原での3週間余りの生活を終えて石垣島に戻った。羽田空港の木下クリニックと言うところで、コロナ検査を受けて戻った。陰性の証明書を貰った。石垣に戻った、9日に田んぼの見学会の進行役をやることもあるので、コロナの検査は必要だった。田んぼと畑と絵を描く。これならまず感染はしない。
今回はずいぶんと絵を描いた。農作業もしたが、絵が描きたくなる日が多かった。何よりも、友人と顔を合わせることが出来て、よかった。お茶摘みでは一年ぶり、2年ぶりという人が結構いた。七夕みたいだと言われたのだが、誰が織り姫様なのかと冗談が言えた。
人間は一人でいるだけではだめだという事を痛感した。一人でいることは楽である。歳ををとったせいだと思うが、一人でいることは苦ではない。しかし、これは衰えに過ぎない。やはり人間の中で人は人間になる。人間関係のストレスはなければいいという物ではない。
ストレスが起こるくらいの人間関係があってこそ人間になれる。そう考えた小田原生活であった。絵を描くうえでも2拠点生活は意味がある。ただただ絵を描いているのでは、絵に前進がない。時々立ち止まり、立ち戻り、振り返る時間がいる。
人には自分をただす時間が必要だ。石垣の生活を小田原が正してくれる。小田原の暮らしを石垣が正してくれる。人は一辺倒に暮らしていると偏りが生ずる。人の歪みを調整してくれるのが、2拠点生活ではないだろうか。自分が飼われるのは環境が変わると言うことだけだ。
舟原ため池の草刈りをみんなでやった。確かに草刈りはやらなければならない仕事である。しかし、この美しい場所を作るという草刈りが、とても良い時間になっているのだ。一年一年、舟原ため池は良くなっている。農業遺構としての意味を含めて、地域に必要な場所だと思っている。
この素晴らしい場所を復活できつつあることが嬉しい。つまり、自分にとっては大きな庭である。こんな素晴らしい庭はないと思う。そしてその大きな美しい庭がみんなの庭として喜んでもらえる。舟原に暮らさせてもらったおかげである。
今年はため池の上の畑で、タマネギとジャガイモが作られている。ずいぶんと整備が進んで、実に作物が良くなっている。過去最高の出来だ。タマネギは種からの苗作り、苗を植え付けて見事な球になった。ついに一年分の自給が実現しそうである。
農の会の有機農業技術の向上がある。偉そうな理屈を主張しても、立派な農産物が出来なければ、何にもならない。有機農業は生産の合理性においても、慣行農法以上だという事を証明したい。市民の農業が農家の農業以上のものであることを証明したい。
何度もタマネギ畑に行った。見上げれば、箱根の山々。遠く相模湾。はっきりと房総半島が見えた。こういう日が年に一二度ある。ため池にはカキツバタが咲いている。カキツバタは2018年7月に植えたものである。確か9株を購入して植え付けた。3年目という事になる。一株だけ種から、成長して花を咲かせたものがある。本来あったものではないことは明確にしておく。
ため池にカキツバタを植える前に地球博物館に相談したら、何と生物の攪乱になるからやめるべきだという説明であった。その環境原理主義に驚いた覚えがある。とても、こういう感覚では環境は守れない。ため池は手を付けづに居たら、ごみ捨て場になったのだ。何のための地球博物館かと驚いた。
浮世離れしているとはこのことだ。美しい場所にしなければ、守ることはできない。草刈りもするべきでないという事か。そうしていてただの荒れ地になり、イノシシのヌタバになったのだ。確かにキショウブはある。ほっておけば、帰化植物に占拠されるのが、今の日本の自然である。
管理して初めて、環境は守られるのだ。美しい場所になり始めて環境の維持をする人が現れ続いてゆく。舟原に引っ越して以来、広い庭だと思い、始めたことだ。だから続いた。初めてため池に散歩に行ったときにオシドリが泳いでいた。その景色に感動をした。そこがごみ捨て場になって、何としても復活したいと考えた。そして、15年が経過して、だいぶ良くなった。
溜池の周囲の耕作放棄地だった場所は地主さんの下田さんが復活した場所だ。自分の耕作地を削り、道路をため池まで延ばしてくれたのだ。そのおかげで、溜池の復活も出来たし、周辺の農地が維持されるようになった。もう下田さんは亡くなられたが、1.3ヘクタール余りの農地の維持はおかげで継続されている。
今小田原市久野で農の会が管理をさせてもらっている農地は4haを超えている。そのほかあしがら平野一体には、もう少し広くあるだろうから、10haは管理していると思われる。市民が自給の為に管理すると言っても、大規
模農家が管理する面積を管理できている。しかもどちらかと言えば、農家が経営には向かないとした、条件不利農地である。
模農家が管理する面積を管理できている。しかもどちらかと言えば、農家が経営には向かないとした、条件不利農地である。
石垣の名蔵公民館で9日の午後、この話をさせてもらう。私に何が出来るのかはわからないが、石垣島に有機農業で田んぼをやりたい人がいれば、その協力はできると思っている。なぜ、市民が行う有機農業の田んぼが、石垣島に必要かと言えば、このままでは田んぼが放棄されてしまうからである。
政府の政策が良くないために、稲作農業は経営が困難になっている。だから条件不利な田んぼから放棄されてゆく。しかし、田んぼの持つ環境への貢献度は大きい、サトウキビや、パイナップルでは、生物多様性の維持は出来ない。むしろ赤土の流出を起こし、環境に害を及ぼしている。
経営が出来なくて止めてしまうならば、自給の為の農業であれば可能ではないかというのが農の会の活動の考え方である。有機農業で田んぼを維持する。田んぼは家庭菜園よりも管理は楽である。水があるために畑より日常管理は楽なのだ。
しかも、名蔵アンパル周辺には放棄されたり、畑に転換されたりしている田んぼがかなり存在する。ここが冬水田んぼとして維持されることは生物多様性を維持するためにも、あるいは赤土の流出を防ぐためにも、有効なことになる。
ラムサール条約では田んぼを湿地として認定されているところもある。アンパルの環境を守る為にも、アンパル周辺で田んぼを復活させることは大きな意味があるだろう。今ならば、放棄地は一部に過ぎない。今こそ市民が田んぼをやる絶好機だと思う。