アジア系差別が強まっている。

   

 

 アジア系人種差別が起きている。アメリカではかなり深刻な状態が始まっているようだ。中国の経済拡大と世界への影響力を本気で恐れ始めたのだろう。黄禍論の再燃ではないだろうか。フランスで白黒黄色の順番だと言われた言葉が今でも忘れられない。

 そもそも白人社会には白人の優越意識がどうしても存在する。産業革命以降の歴史がそうさせたのだろう。フランスでも不愉快な人種差別を何度も体験した。だから、アメリカが中国に対して人権侵害が起きているなど良く言えるなと思う。もちろん中国の民族差別も許せないことだが。

 アメリカでは警察官が黒人を窒息死させるような事件が絶えないでは無いか。人権問題では、よその国どころではないのがアメリカの実情ではないのか。この先日本人に対しても同じような差別的なことになってくるのではないだろうか。フランスでは日本人差別はまだましと言うことで、アラブ系やアフリカ系にはひどい暴力的差別が存在した。

 私の中にも差別意識は存在する。差別が全くないという人がいるということの方が信じがたいことだ。自分は差別は一切無いという人がいるとすれば、それは、人間と違って特別な聖人なのだと思う。普通の人間は差別する意識がある生き物と考えた方が良い。ただその差別意識をどのように、抑制し調整できるかだけだろう。

 猿の惑星という映画の中に、サルたちが人間を見て、気持ちの悪い奴らだと違和感を感じている場面がある。サルが世界を支配すれば、人間が差別され動物園に囲われる動物として扱われる。サルと人間ならまだ良いが、人間同士でも似たようなことが起こる。

 違うものに対して違和感を感じるのはあることだ。人間として同じであるとしても、いくらか違うところがあればいじめの対象になる。それは群れで生きてきた人間という動物の、本能的な物と考えてもいいのではないかと思う。差別という物があるという上で、偽善的であっても良いから差別を克服しなければならないと、考えるほうが現実的ではないか。

 そして、さらに重要で一番解決が困難な差別は「能力差別」である。女性差別や人種差別よりも始末に負えないのが能力差別である。現状では能力差別は差別に入れられてさえいない。しかし、現実には能力差別が人種差別に繋がり、深刻な差別状況を生み出している。

 資本主義社会は能力差別社会である。ここを容認しないと資本主義が成立しない。社会的に認知されている差別が、能力差別である。学力によって、教育を受ける権利が制限されることは、当然とされている。この能力差別が人種差別にも繋がっている。能力差別を克服できなければ、人種差別もなくならない。

 能力差別を刺激して、人間から競争の努力を導き出そうというのが、資本主義社会なのだろう。人に勝たなければ、豊かな暮らしが出来ないという状態を作り出し、人間の努力を引き出そうとしている。これが資本主義社会のここまでの発展の原因であることは確かだ。しかしその限界に達したのだ。

 人間は生まれついて能力差がある。誰でもが100メートルを10秒台で走れるわけではない。どれほど努力をしても出来ないことの方が多いのだ。そして、それを実現した類い希ない人が賞賛されることになる。そしてできない人が無視されることになる。

 人間として重要なことは出来ないかもしれないが、努力してそこに至ろうという意欲である。出来ないから諦めてしまう必要は無い。自分という物をまっとうすると言うことが大切なのだ。能力差別はその人間の意欲を失わせている側面もある。

 そもそも人間はほとんどのことが出来ない。100メートル10秒を切って走る人でも、マラソンを走れば、2時間30分を切ることすら出来ないだろう。これは外国語を覚える能力でも、高等数学を理解する能力でも、少しも違わない。

 人はそれぞれの能力限界がある。しかし、社会は金儲けになる能力で優れている人が賞賛される。株式投資などまさにくだらなさの象徴である。将棋の藤井聡太さんが注目を集めている。私も将棋好きだから、いつも気にしている。しかし、ゲームに夢中になって人生を費やしていて良いのだろうかという疑問も湧くことがある。藤井さんよりもコンピュターの方が強いのである。

 テレビゲームに子供が熱中してしまい、勉強をしないで困るという親は多いのかと思う。しかし、ゲーマーとか言うプロ選手が登場して、一億円プレーヤーも出てきたらしい。そのうち親はそんなにテレビゲームが好きなら、いっそうプロを目指しなさいと言う事も出てくるだろう。きっともう始まっているのだろう。

 私は子供の頃、次々くだらないことに熱中した。その一つが絵を描くことだった。正直子供らしい絵でもないし、大人顔負けの上手な絵でもなかったのだが、どういうわけか絵を描くことに熱中した。将棋やベーゴマに比べれば、怒られなかったのだが、奨励はされたわけではなかった。

 アジア人がアメリカで嫌われる原因は、行き過ぎた能力主義による社会不安であろう。白人の追い込まれている心境の反映である。トランプが中国を悪者に仕立てた心境と同様なものである。アメリカが世界一で無ければいられない。アメリカナンバ
ーワンが危うくなってきた。この不安が差別を増幅している。

 テニスでは大阪選手、ゴルフでは松山選手がアメリカで優勝した。いままでこんな人はいなかっあのだから、すごいことだと思う。最初の一人になると言うことはどれほど大変なことであるか。日本人として嬉しいと思うことは、アメリカ人はがっかりして、又不安にも成ると言うことなのか。

 いかに能力主義がご都合主義であるかである。能力差別を認めるのであれば、中国がアメリカに勝つことも受け入れざる得ないところだろう。ところが、負けるはずがないと考えるから、中国が何か卑怯な事をしているに違いないという所から始まっている。こういう思い込みが差別を生んでいる。

 アメリカが世界一になったことも、中国が追い抜いて行くことも、日本が中加減の当たり前の国になることも、別段誰が悪いからでもないし、卑怯な奴がいるからでもない。競争主義ではかならずどこかの国がどこかの国を凌駕するのだ。

 自己新の記録が最も重要であるが、自分の最高記録はみんなの中では10番ぐらいかもしれない。それは恥ずかしいことでもない。人と比べる必要はあるが、比べて劣っているからと言ってそれが人間という物の特徴であり、当たり前のことだという意識を育てるべきだ。

 人間は競争を無くせば、努力をしなくなる。これは思い込みにすぎない。人間は自分をやり尽くしたくて生きている場合が普通だ。人間という物を信じたほうがいい。それぞれがその場その場で最善を尽くすことが出来る。どの宗教だってそういうことを言っているのではないか。

 人間は差別意識がある。私にもある。しかし、偽善と言われようともその差別意識を抑えることが出来るのも人間である。差別のない人間になる事は難しい。それならば努力して差別意識を抑えることしかないだろう。それは出来ないことではない。
 

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