絵を描く気持ちを考える。
ニュートンの絵の具の大中小である。37ミリ、14ミリ、5ミリ。5ミリは20年以上買ったことがないので、古い絵の具である。春日部先生に頂いた絵の具かもしれない。使わない色は何十年も残って行く。それでもチュウーブは柔らかくまだ使える。
今は37ミリがある色はすべてそれにしている。ebeyで買うので、日本で買う14ミリと同じくらいの値段で買える。絵の具の質が違うと言うことはない。絵の具自体以前とは大分色味が変わっている。顔料が変わった。公害対策と言うことがあるようだ。いまは慣れたので、使いようで何とかなっている。
生きていると言うことは、たいていのことが結論の無いことである。たぶん、何もよく分からないまま生きて、死ぬのであろうと思う。理解など出来ないまでも、少しは分かって死にたいと思って生きているのだが、すっきりと分かるというようなことはほとんどないと思わざる得ない。
生きている以上この曖昧さを受け入れる以外にないと言うことなのかもしれない。これが生きていると言うことを理解しにくいつらさなのかもしれない。そして、曖昧なことを曖昧なまま受け入れると言うことが生きるこつのようなものになると思うようになってきている。
絵を描くと言うことはまさに、曖昧なことを曖昧なまま表している。自分の方角だけを示しているとも言える。文章なら、曖昧さがないかと言えば、文章の良さもよく分からないと言うことをそのままよく分からないと書けると言うところだと思う。
絵は空間を示す。空間の空気感で、描く者の観ている世界を伝えるところが一番の特徴でないだろうか。この観ている世界が深く、豊で、深淵であると、その絵によって見るものに伝わってくるものがあるのだろう。と言って、空間を示すと行っても実に曖昧なものだ。曖昧まで含んで表現できるからこそ、絵ならではの世界と言うことになる。
このことを気付いたのは、私が描いているのは眼前の風景ではなく、記憶の中に見ている風景なのだ。確かに目の前にその景色あるし、それを見ている。しかし描いているのは、記憶の中の目の前の風景なのだ。記憶の中の風景の方が、絵としては確かなものだからそうなるのではないか。
この記憶している風景と思っている者は、実は絵を描く時の眼で見ている風景である。絵を描くときの眼は風景を風景となしている重要なものを探す眼だろう。記憶がそれに近いのは、あそこだと分かるのは感じな所を把握しているからだろう。
ごく当たり前田んぼや畑を描いている。特別特徴的な物がないとしても、石垣島の人がふるさとだと分かるような絵を描いているのでは無いか。何十年も石垣を離れた人が、私の絵を見たときに石垣島だと感じるのではないか。石垣島に今暮らす人はどうにも分かりにくいらしい。写真のような意味でこれはどこかと考えても、具体的にはそんな場所はないのだからそういうことになる。
音楽、文学、そして絵画。すこしづつ置かれた位置が違うのだろうが、芸術という物は明確に出来ないことを、以心伝心のように伝えているものもしれない。絵以外に表現しようがない、私が見ているものがある。空間の永遠性のようなものだ。なんとも言葉にすると違ってしまうが、空間には自分にこれだという空気と、これは違うというものとがある。
この曖昧な違いを突き詰める。そのためには空間を見る眼を深め、高めているにちがいない。目の前にある13枚の描きかけの絵と、ある程度ど終わりに行ったかなという絵とが並んでいる。そして、比べながらどの絵なら自分の観ている世界といえるのかを考えている。
この絵のこの部分は許せないというところがあれば、今日はその絵を進めることになる。この絵なら今の自分の絵と言っても良いかというものもある。そうやって徐々に全体の中で煮詰めている。このやり方が良いのかどうかも分からないが、自分なりに進める道を進んでいるつもりである。
農業をやっていれば、いつも曖昧なことの上に決断を下して、行動すると言うことになる。たぶん生きていると言うことは農業をやると言うことと同じで切り捨てていると言うことなのだろう。水をやるべきかやらない方が良いのか迷いながら、出した結論が水をやるであるにしても、雨はとつぜん降るのかもしれない。
農業には収穫という結果がある。今年は8俵であったと言うことは結論である。それ以上でも以下でもない。ところがそこでもこのお米は力があるとか、病を癒やすとか、中には放射能を除去するという物まであった。8俵は分かりやすく8俵である。
人間は見えないところにすがりつく。すがりついて自己正当化する。絵などまさに何が良いのか悪いのか、訳が分からないから、描いた当人が世間の評価に依存することになる。何の意味もないことだ。評価されないゴッホがどれほど人を救済していることか。
忘れられようが、世界で評価され歴史に残ろうが、描く人にとっては描いた絵以外にない。私には中川一政の絵はゴッホ以上にたしかなものだと思う。比較するような物ではないが、人間の崇高なものがそこにあると見える。だから、絵の方角はそこにあると思っている。
絵の他にない良いところは具体的な事物であるところだ。音楽や文学はこうはいかない。良い絵とは事物になっている。事物とは永遠に揺るがないもの存在である所だ。何でも具体性がないと居られないものの芸術だ。私ごときものが偉そうではあるが、そういう崇高なる世界観を事物として存在させたいと思っている。
まだ、命は続いている。少なくとも後10年。出来れば20年あれば、何とか崇高な世界観に近づけるかもしれないと渇望している。乞食禅そのものであるが、それで結構と思っている。インチキであろうが、それ以外にやりようのない性格は今更のことである。
絵を描くときいつも反芻していることがいくつかある。どのことも絵を描いているときには忘れていることだが、上げてみる。絵を描きながら何か観念的なことを思い起こすことは出来ない。脳の中の回路が違うところで動いている。いつもギャラリーで絵を見ているときに考えることである。
1,絵を描いているという意識があるか。
2,色で描いているだろうか。
3,線や点の表情が自分であるか。
4,絵を作り上げていないか。
5,絵に分かり過ぎではないか。
6,自分の空間と言えるか。
こういうことは描いているときには全く考えられない。絵を描くと言うときはただ絵を描く機械になっている。感覚としては動禅に入ったときの心の状態に近い。受け止めたものに反応している。これはそうしていると言うより、昔からそうだっただけだ。