女性のいる会議は長くなるって、本当。
オリンピック東京大会委員長の森氏があからさまに女性を非難した。この人が辞めないのであれば、東京オリンピックは開催できないと見て良いだろう。この人はついひとを責めてしまう癖がある。浅田真央さんを大事なところで転ぶ人だと発言したことは忘れていない。
森氏が会長になったときから、失言をしてメチャクチャにすることを恐れるという意見は多かった。自分の内閣を日本は神の国だと発言して潰した総理大臣である。何しろ、支持率がほとんどなかったと言う空前絶後の状況の経験者なのだ。
しかし、何故それほどダメな人を東京オリンピックの責任者にしなければならなかったかの原因は、自民党に対して、特にアベ内閣に対して口がきける人が他にいなかったからである。日本における意志の決定は論理ではないと言うことだ。
もし論理でこと進めるのであれば、会議に時間がかかるなど当たり前のことで、時間がかかることを良くないことだとするはずもない。日本の会議は参加者の意見を予測し、異論を出しそうな面倒な人を根回ししておくのが普通である。
ラクビー協会の初の女性理事のかたが批判されたのは私のことだと名乗りを上げている。稲沢裕子・昭和女子大特命教授である。ラクビー協会の会長を森氏がやっていた頃、女性の理事がいないような組織では、おかしなことになるという世論に押されて、稲沢氏はラクビー経験がなく、理事になったのだそうだ。
稲沢氏としては一般社会の感覚で、基本的な在り方を質問したり、意見を述べたらしい。森会長がそうしたことを期待して自分を理事にしたと考えていたようだ。ある意味森氏の意向を読み違えていたと言うことになる。森氏としては世間体があるので、女性を加えたと言うことに過ぎなかったのだろう。
他の男性理事は森氏の意向を忖度して、特段意見は言わないという雁首理事だったのだろう。形式的追認理事会ならば時間はかからない。確かに時間はかからないが意味のない理事会ではある。なにか問題があれば、理事会の前に調整済みの会議となる。
こうした組織が日本的会議と思われるのだろうが、それは明治時代以降のことだ。江戸時代の集まりは、2晩泊まりぐらいにも成る集まりが普通だったと言うことだ。小田原評定、久野寄り合い。と言う言葉がある。時間ばかりかかりいつまでも決まらないで、機会を逃す意味に使われる。が、本当の意味は、時間をかけて話し合う重要さを言っている。
納得が行くまでとことん話し合う必要性を言っているのだ。寄り合いの時間は長いことが悪いわけではないと思う。あしがら農の会の定例会は夜中までかかるのが普通であった。寄り道が多くて話が決まらないで延々と続く。それであってもまだ、問題は残って行く。
それが、人が多くなってきて、時間で切り上げることになった。わざわざそのために、公の会議室を借りるようになった。それなら9時終了だからだ。それまでは誰かの家で集まっていたので、夜中まで出来たのだ。それで農の会の基礎が出来たとも言える。
話を端折って終わりにせざる得ない。この頃から誤解がいくらか生じるようになった。納得を行かないまま決まるからだ。決めるには多数決ではダメなのだ。全員が合意するまで延々とやる必要がある。
会議で決まったことでも、自分はこう考えていたと言うことでずれが生じてくる。それで会を離れる人が出た。別段辞めるわけでもないのだが、会と距離を持つようになる人が増えた。江戸時代ではないから、仕方がないことではあるが、会議は長くなければ話し合いをしたことにはならないという意味もある。
もし女性が入り会議が長くなるのであれば、むしろそれはすばらしいことである。議論が実質化したという側面がある。時間が短くてすむべきと言うのは能率主義に過ぎない。大事なことには能率主義では解決できないこともままある。
充分話し合わなければならない、問題点が存在することを女性の視点が指摘したと言うことである。男性がそんなもんだとやり過ごしているところに気付かない重要な観点があると言うことが想像される。
私の経験では女性の方が有能である。これも差別主義なのかもしれないが、男はダメだなと思うことの方が多かった。それは私をふくめてのことだ。農の会では半分は女性代表でなければならないと主張してきた。当たり前のことだろう。今も優秀な女性代表である。
森氏は石川県出身の人である。なんとなく石川県民的性格は想像できるところがある。ああ見えて、結構頭が良い系の人である。先読みは鋭いところがある。先読みをしすぎて、間を飛ばして場違いな言わずとも良いことを口にしてしまうのだ。
女性が入ることはスポーツ省方針であり、世界の流れなのだから進むことだろう。そのことを知らない人ではない。会議の前に説明的な一般論が必要だと思ったのではないだろうか。女性を入れないという意味ではないと思う。会議の前の調整とはどういうことか。つまり小池さんと森さんの調整のようなものだろう。
もめ事を世間に出さないで進めるための方策が必要という考えなのだろう。しかしこれまでもオリンピック東京委員会は何度も失態を繰り返している。その原因は問題点を充分に話し合うことが出来ていないからだ。森さんを忖度してみんなおかしいともうことすら発言しないからである。
会長は名前だけの人の方が良かった。ダメな会長になると必ず問題が起こるのだ。そもそもオリンピックの誘致から始めた人だ。早く裏に回るべきだったのだ。森さんが政治的に動かなければならない場面だけ動いてくれて、後は若い人に任せるべきだったのだ。その度量がないから、表に出て自分の思うとおりに動かそうとしてしまう。
その結果注意の行き届かない落ち度が連発するオリンピックになっていた。1年延期になったおかげで、まだ良かったぐらいに調整不備だったと思う。日本人が会議が出来ない人間になってきている証拠だろう。本当の意見を引き出すような人材がいないのだ。
有能な人はいるのだが、有能な人間を生かすような人材がいない。企業のことはまるで分からないが、私が関わった組織の多くは、会議の形をなしていない場合が多かった。会議を会議にするためには、わざわざ面倒くさい話を持ち出さざる得ないことがままあった。
会議は短いほど良い訳ではない。シャンシャン大会は形式を整えるだけのことになり、結局は形骸化する。