コロナが流行して死ぬ人が減った。
偶然撮った写真。偶然は面白い。
1~10月の日本の死亡数は前年同期より1万4千人少ないことが厚生労働省の人口動態統計(速報)で分かった。死亡数は全国で113万2904人。前年同期は114万7219人で、1万4315人(1.2%)少ない。肺炎やインフルエンザを含む「呼吸器系の疾患」で比較しても計1万2872人減少し、7月までの全死因の減少分(約1万7千人)の4分の3を占めた。
感染症以外では「循環器系の疾患」が7913人(3.8%)減った。内訳では急性心筋梗塞など心疾患が4962人(4.0%)、脳梗塞など脳血管疾患が2887人(4.6%)減った。外出自粛の影響から交通事故など「不慮の事故」も1631人(7.1%)減った。自殺は8月以降も増えており、11月までに約1万9千人で、前年を550人(2.9%)上回っている。
老衰による死亡が増えて2009年は全死亡に占める老衰は3.4%、死因別では第5位。2019年には同8.8%、第3位になる。2020年さらに増加しそうとのこと。
ーーー日本経済新聞
興味深い数字である。まるで、コロナが流行して良いこともあったというような結果である。少なくとも悪いことばかりでは無かった。この10年日本の死亡者数は増加していた。老人の多くなる年齢構成から来ているのだろう。もう一つ死因に老衰が多くなると言うのは大往生が増えたと言うことになる。
コロナの流行した2020年は死亡者数が減少しそうだというのだ。日本の平均年齢は延びると言うことになる。コロナとの勝負に負けたわけでは無いと言うことになる。老人に厳しいコロナという病気に対して、頑張っている日本人の姿が現われている。
今更、法的な効力の無い緊急事態宣言などしたところで何の効果も無いだろう。飲食店の時間短縮もさしたる効果を上げないだろう。総理大臣すら、うっかり老人忘年会をやるぐらいに緩んでいる。若い人がもう自粛など出来ないと考えるべきだ。
どっこい生きている。人間はコロナなんかに負けやしない。コロナから学んだことが山ほどある。ウイルス学は急速に進歩した。しかもその学問の成果が、社会の共通認識になった。それにしても日本ではワクチンがまだ出来ない。日本人の萎縮なのか、劣化なのか。この現実は認め無ければならない。
ウイルスの変異。交差免疫。ウイルスとワクチンの関係。自粛の限界。疫病に対する国の安全保障の見直し。日本が敗戦をして、平和国家になったことと同じだ。ウイルスとの戦いには敗れたが、学んだことを生かして、次なるウイルスに備えねばならない。
社会で起きていることを俯瞰的に総合的に見ると見えてくることが確かにある。まさに死亡者数の分析の数字を見れば分かることだ。コロナ死亡者を隠しているというようなデマがいかに馬鹿げていたことかわかる。他の死亡にしているのだとすれば、他の死亡者が増えなければならない。
ネット社会になり、不安な人が信じてしまうデマが広がりやすい環境になっている。今回も、感染防御を無用だと主張した人がいた。経済がダメになればもっと人が死ぬという理屈だった。こう言う主張をした人は今後信じない方が良いと言うことだ。
感染が広がれば、経済も悪くなる。感染を抑えきった中国だけが、経済の打撃も少ない。そのこともあって、2028年にはアメリカを抜いて世界一になると言うことらしい。中国にならって国家資本主義的傾向に世界は進むことだろう。
自由とか平等とか、民主主義は後退して行く。経済のためには民主主義など犠牲にしてもかまわないという考え方が広がるだろう。世界は拝金主義なのだ。資本主義と言うより、守銭奴的な拝金主義に過ぎない。経済に勝てばそれだけで良いという浅ましい世界にさらに進むだろう。
世界がそうした傾向になる中で、人間の尊厳をどう守るかである。バブルという生き方があるらしい。バブルは経済崩壊のことでは無く、泡の中で共に暮らすという意味らしい。コロナ下の精神の救済である。
グループをつくり、そのなかの人間同士は信頼し合い、人間らしい密な関係を残す。互いがバブルの外との関係は十二分に気を付ける。このような関係を作り出さないと、人間性が崩壊すると言う考え方のようだ。私が農の会の人間を信頼し、一定の関係を持っていることに似ている。
この人なら、やたらにレストランに行ったりしないだろうという信頼である。コロナには誰でもかかる。かかった人を差別しては成らないが、かかる確率の高い人と、ほとんどかからないだろうという人がいることも確かだ。互いがかからないように努力しながら、一定の人間関係を維持できる仲間は人間には必要なのだと思う。
人間の幸せの大きな要素が長寿であるとすれば、疎の社会の方が幸せ社会になる側面もある。この点必要な人間関係と、無駄な避けた方が良い密な社会とを考える必要はある。そして必要な密接関係のために感染症にかかったとしても、それは悪いこととしてでは無く受け入れられる社会。
親子でも会わない方が良いというような社会が幸せな社会であるはずがない。それなりの問題が予想されても、人間らしい生き方をしなければならないのだろうというのも当然のことだ。それぞれの責任で、自らの暮らしの責任を持たなくては成らない。
石垣島では路上寝の数が毎朝、地域FM放送サンサンラジオで放送される。これがなんと、昨年は例年以上に多かったというのだ。果たしてどういうことだろうか。夜中まで飲んでいる人が例年より多かったと言うほか無い。コロナを全く気にしていない人が沢山いるということである。
石垣島で疎の暮らしを選択している。ひとりで絵を描いているという状態は死ににくい暮らしであると言うことは確認されたようだ。しかし総合的に俯瞰的にと言うことで、私の生き死には又別である。一億分の1の話はすべて特殊解である。