湿疹が続く

   



 ヨブのことを思い出す。湿疹が出るとヨブのことを思い出す。痒さというものは神経を疲労させる。静かにものを考えると言うことが出来なくなる。何故湿疹が出るのかが分からない。分からないということの罪。つらさがかゆみに連動する。

 薬は嫌いだから、こうした時辛い。ブログを書こうにもなかなか進まない。かゆみというものが神経をおかしくする。関連があるのかどうか分からないことだが、コロナに敗北した結果が現われているとしか思えない。以前絵に負けたときも、放射能に敗北したときも湿疹という結果になった。

 コロナ感染爆発が起こることは10年前から分かっていた。その警告は発していたが、私の出来ることなどしれていて、少しの警告にも成らなかった。もちろん原発事故の時もそうだ。いつか原発事故が起こると思っていた。特に、新潟で原発での火事が起きたときに、必ず原発事故は起こると確信した。

 しかし、何も出来なかった。出来ることはブログで警告を発するぐらいで効果のあるようなことは出来なかった。危機が来ることが分かっていても、何も出来ないことの無力感。分かっている危機の警告すら表現できない無力。これが、自分の身体をさいなんでしまう。

 その意味では資本主義が限界に達すると考えている。その姿がすでに世界に現われている。しかし、資本主義をどう乗り越えるかはまだ誰も見付けられない。岸田政権もそのことを言っていた。岸田政権は問題意識は悪くないと思う。本気でそれに取り組むとは思えないのだが。

 自給的生活をすることで、この危機を乗り越える避難場所を提案してきた。これから起こることが予測される経済の緊急事態をやり過ごすためには、食糧自給の手段を持つことが大切だと今でも考えている。自給の伝承。伝承。

 しかし正直、何も伝えたことにも成らないほど、微力なことだ。30年になる農の会の活動が何故全国に広がらないのかと思う。おかしな奴の戯言ぐらいにしか成らないのだろうか。土台庶民というものはそういう物だろう。政治に1票だけの表現が出来るが、それ以上でも以下でも無い。

 自給生活のユートピアの構築である。ここまで来ると政治には期待ができない。もう日本人全体がおかしくなり始めていること自体が、能力主義の行き過ぎだろう。選挙自体が機能しない中では民主主義は期待できない。経済生活を重視すれば、野党よりも自民党の方がましだという感覚が現実社会なのだろう。

 その心理を悪用しているのが、.日本の既得権勢力である。何が嬉しくて、石垣島にミサイル基地を作るのだろうか。石垣島を中国のミサイルの標的にすることを、願っているとしか思えない石垣の市長と保守勢力。尖閣を守ることよりも市民の命では無いのだろうか。

 アメリカの要請に従い、中国と敵対することの背景にある、利権構造が存在する。既得権勢力が日本には岩盤勢力として存在するのだ。日本の保守主義と言うものは愛国者では無く、売国奴である。日本をアメリカに売り渡すこと意外に日本の安全保障が考えられない日本の保守主義。

 石垣島に自衛隊のミサイル基地が出来れば、自衛隊住宅が出来る。そこに自分の土地が有効利用されればと言うような、日本の防衛とはまったく関係の無い利権で動いている。そうした実際利権がすべてなのだ。それが日本の現実である。そこにつけ込んで、利権の上前を取ろうという勢力がある。

 世界中で民主主義がないがしろにされて行く現実を目の前にしていても、何も出来ないでいる。ミャンマーや香港やアフガニスタンに暮らす人達の命がけの意思表示から思えば、実に生ぬるい態度の生活である。申し訳ないし情けないが、石垣島でも随分民主主義が後退してしまった。なんとしてもここを乗り越えなければ始まらない。

 日本を守るためには、石垣島にミサイル基地が必要だと考える日本人は多くは無い。武力主義を乗り越えようというのが、日本国憲法が政府に命じていることだ。ところが基地とそのことにまつわる諸々の利権で実際には基地建設が進んで行く。たぶんそんなものだろうと考えているのが大半の日本人だろうと思われる。

 ある意味日本人の価値観は余りにお金重視になってしまったのだろう。倫理観が失われたのだ。どう生きるかが見えなくなると、お金がすべてになるのではないか。お金になるのであれば、他のことは見えなくなる。これが日本人の大半である。かなしい日本の現実である。

 たぶん選挙での判断基準は、自分のお金に繋がるかどうかの人が多数派なのだ。自分の経済にとってマイナスであっても、日本の未来のためにはこの政党を支持すべきなどという判断基準は、本当に一部の人の判断基準だ。景気を誰が良くしてくれる歌詞か判断基準が無い。

 だからこそ次の世代に期待して、自給生活の重要性を主張したい。本当に微力で、たぶん無駄なのだとは思うが、やれるだけはやらないでは居られない。もしかしたら無駄だとは言えないかもしれない。諦めてはいられない。私が実戦した農業技術は伝えたい。

 鶏を飼う技術。田んぼを作る技術。これだけは人に伝える義務がある。私がこうした技術を学
ぶことが出来たのは、江戸時代の先駆者の残した技術である。それを次の世代に伝える義務がある。細い糸ではあるが、次のさらに厳しい時代の中で、自給自足で生き抜く技術の参考にはなるはずである。

 まだ石垣島での稲作技術は見えない。自分がやることの先が見えないで苦しい。田んぼを見てまた苦しさが増した。それが、湿疹に表われているような気がする。これはなんとしてもしぶとく、乗り越えなければならないことだ。湿疹ぐらいで諦める訳には行かない。

 - Peace Cafe