タネ取り田んぼの自家採種
10月24日種籾の稲刈りをした。サトジマンである。1本植した、株が20本以上の穂をつけていて、病気のない株を選んである。大きな株は26本の穂をつけていた。荒れ地だったところを、田んぼに戻して一年たたない。こんなに立派な田んぼが出来たのは、ほんとうに素晴らしいことだ。気の合った仲間がいたからこそできたことだ。
農の会という、自給活動の会を始めたことは間違いのないことだった。山北の山の中で始めた、一人の自給がこうして仲間と一緒の自給活動になったことはかけがえのない、様々な出会いの幸運が重なったからこそできたことだろう。農の会の活動の考え方が、広がってゆくことを願っている。
写真で見ると、3月までは荒れ地だったという事が嘘のような美しい田んぼだ。田んぼではハザガケがされると新しい風景が作られた気になる。右側のまだ稲刈りがされていない田んぼが、私の担当の田んぼだ。一本植で一日かけて一人で田植えをした。
種もみはその形質を確認するために、一本植でなければならない。一番重視しているのは分げつ力と耐病性である。田んぼには必ず病気は出るものだ。消毒を一切しないのだから、病気が出て普通である。広がらなければ問題はない。
例えばイモチが田んぼに出たとしても、感染をしない株は必ずある。耐病性がある株なのだと思う。そうした株を選抜して種籾にして行けば、病気の出にくい田んぼになってゆく。だから、田んぼには種もみを採取する1本植の部分を作らなければならない。
自家採種の株は他とは分けて家に持ち帰り別に天日干しをしている。脱粒するときも丁寧に行う。今年は石垣島の田んぼの分準備するつもりなので、少し多めに種を残した。サトジマンを4キロと。ハルミは直蒔きし田んぼのものを種取りした。
田んぼの畔に一列植えてあるのはあぜくろ大豆である。小糸在来種という品種で千葉県の小糸川周辺で出来た在来種と呼ばれる大豆である。この大豆も小田原でもう20年は作り続けている。この大豆は収量はそれほど多くはないが、小田原の気候には適合している。ともかく味がよい大豆である。味噌や醤油や納豆を作っても格別な味になる。
今、ちょうど枝豆ぐらいである。11月に収穫になる。出来ればその頃にもう一度小田原に来たい。大豆が終われば、麦の播種になる。そういえば去年の大麦で出来るはずのビールはどうなったのだろう。11月に石垣の田んぼは終わっているだろうか。
この大豆で納豆を作り毎朝食べているが、市販の納豆とはかなり違う味がする。おいしいのかどうかは分からないが、その味が自分にとっての納豆の味になってしまった。大豆の味がはっきりとしていていいと思っている。大豆も当然種を残すことになる。
ここはもち米の田んぼである。奥に久野川があり、4メートルほどの谷間になっている。反対側の丘の上に欠ノ上の集落があり、そこは15mほど高い場所になる。久野川に落ち込んでゆく斜面に段々畑が切り開かれいる。良く田んぼが作られたものだ。
田んぼがこの地域に作られたのは江戸時代初期になる。その頃、一つ上の集落に溜池が作られて、それが元治年間という記録が残っている。その頃に久野地域には田んぼが広げらて行ったようだ。400年が経過している。400回耕作をしたことがある田んぼという事になる。
田んぼという物は作れば作るほど良くなってゆく、すばらしい農法である。お米を主食にしたことは日本人の循環型の暮らしを生み出したのだろう。水田でのイネ作りを我々の先祖が、大切にしてきた気持ちがよく分かる。欠ノ上に水をひくために、一つ上の地域に溜池を4つ作った。隣の坊所の集落からは一つ山の下をトンネルで水路を通してまで水を引いた。
それほどの工事をしてまで、田んぼを作ることには意味があった。田んぼさえあれば、食糧自給が可能だという事が分かっていた。政治とは治水であり、水田稲作を通して、集落を形成してゆく。人間の暮らしの調和がそこに生まれた。
それは江戸時代という、とても封建的で自由のない社会であったわけだ。その暮らしはそのまま受け入れることなど出来ないが、明治時代の富国強兵の時代から見れば、よほど安定した平和な世の中であったわけだ。江戸時代を否定的な媒介として見直す必要がある。
その封建制や、身分制度を克服したうえで、江戸時代に戻った方がいいというのではなく、新しい人間の暮らしを見つけなければならない。今あるものを受け入れて、充実してゆく暮らしがある
はずだと思う。拡大再生産の人間の暮らしは明らかに、破たんした。
はずだと思う。拡大再生産の人間の暮らしは明らかに、破たんした。
25日には私の担当の田んぼも、稲刈りが終わりハザガケがされた。今年も見事な豊作である。みんなに助け頂いたお陰である。石垣島に居ながら、小田原で田んぼが出来ることは何ともありがたいことだ。今年も小さな田んぼのイネ作りが出来た。しみじみと充実を感じる。許されたような気持ちだ。
小田原で確立された小さな田んぼのイネ作りは、安定した自然農法の畝取りを達成している。私が石垣島に引っ越して2年が経過した。私がいなくなってからの方が、以前にもまして安定してきている。久野地区で3ヘクタールほどの田んぼ面積になる。
この農法は伝統農業の技術と言える。たぶん江戸時代の人がやっていた農法とかなり近いはずだ。トラックターもハーベスターも使うのだが、機械に依存したものでもない。もし、化石燃料が使えなくなったとして、小さな田んぼののイネ作りは続けられるだろう。
石垣島でも農の会方式の田んぼを始めたわけだが、まだまだ、石垣島の田んぼは土壌も出来ていない。2期作目の田んぼはあまりに気候に適合しない。品種も何が良いかもわからない。「ひとめぼれ」がだめだという事だけはよく分かった。
何としても石垣島のイネ作りで畝取りできる技術にまで高めたいものだ。徐々に来年の春からの作業は徐々に頭の中にできてきた。来年の挑戦が楽しみである。