ゲーム依存症と精神疾患
ゲームに熱中してしまい普通の生活が出来ない状態になるゲーム依存症というものがある。それは精神疾患と言える深刻なものまである。これは賭博依存症の問題と似ている。賭博から抜けられなくなり、生活を破綻させてしまう。どこを越えると精神障害と言えるのかどうか。かなり微妙な問題である。
プロのゲームーと呼ばれる人は、ゲームばかりしていていて、生活のできる人なのだろう。生活が出来れば精神疾患では無いということになるのだろうか。度を過ぎたからと行って、それで収入があれば問題が無いのだろうか。専門家の中には、そのことに溺れてしまったような人がいないわけでは無い。
まともな日常生活が出来なくなると言う意味では精神疾患と呼んでも良いのだろうが、何かに熱中してしまい抜けられなくなり、一生それに専念してしまうと言う人生は素晴らしいとも言える。江戸時代にらんちゅうの作出に生涯を費やした人は、素晴らしい人生に思える。プロフェショナルとNHKなら言うのだろうか。
金魚や寒蘭のような趣味に熱中してしまい、生活できなくなる人はときどきいる。金魚が千両というような値がつく。そんな趣味人とは多く付き合ってきた。絵にはまり込んでいて他はどうでも良いという意味ではかなり病いは深い。
それでもそのこと以外見えなくなってしまうことを精神疾患と呼んでいいと成ると少し困る。度を過ぎるほど熱中した人以外に良い絵など描けたことは無い。そうした一つのことをやり過ぎてしまうような人は精神疾患と言えないことは無いが、それが人類に有意義なことであれば、むしろ幸いなことになる。
将棋に熱中した天才少年藤井聡太さんは、若い人であるが人間としても立派な人である。羽生天才棋士もさらに立派な人である。これが将棋で生活できるから、立派な人となるが、浪速の坂田三吉は生活破綻のただの道楽者と言うことになるのかもしれない。
麻雀のプロと言うような人もいる。それで生活が出来れば問題が無いと言うことなら、どれだけ無駄なことに見えるようなことでも、それはそれでかまわないと言うことになるのだろうか。本当はそうではないと思う。世の中のためには成らない職業も沢山ある。生活ができるからと言って、ダメなことの方が多いくらいである。
将棋指しも、ゲーマーも、雀士も、みんな碌でもない職業だと思っている。そんな何も生み出さないような職業はない方が良いかと思う。と言っても中国のような共産主義を標榜する国家でも、囲碁の棋士は存在する。ただし、ゲームは一日1時間と国によって決められたようだ。
コンピューターゲームがオリンピック種目になり、親がもっとゲームをしなさいと、子供を叱る言うような時代は見たくもない。もちろんもっと絵を描きなさいと言う親もまずいないだろう。それくらいが丁度良いかもしれない。
囲碁将棋はゲームと言っても文化であると言うような位置付けがある。学校教育でも課外活動として行われている。必要な娯楽のようなものなのか。あるいは頭の回転や思考力を高める機能があると言うことなのか。麻雀は時間の浪費が問題だと言うことで、禁止されたことがあったがいまはそうでもないのだろうか。中国将棋は公園で指している人を見かけた。
IQを向上させるゲームというようなものが登場するのかもしれない。コンピュターにはそういう可能性は無いわけではない。1歳児用、2歳児用、3歳児用と、子供にやらせるゲームが登場してくる。そういう時代に生まれなくて良かった。
何故ゲームの精神疾患にこだわるかと言えば、自覚症状が何度もあるからだ。いまの絵を描くことだって似たようなものだが、小さい頃は、メンコとベーゴマ。勝てば総取りできる勝負である。完全にはまっていた。いつもそのことだけになってしまった。
将棋にはまった期間は長い。フランスにいた頃は、ビンゴゲーム。やらないと禁断症状のようになる。完全な依存症である。やっているときだけ平安な時間である。もし将棋に才能があれば、プロを目指したことだろう。幸いというか、そんな能力がなかった。
ゲーム依存症になる原因は、生きる焦燥感のようなものの気がする。子供の頃のベーゴマにはまった理由は、適応障害児であったと思われる。何か別世界で漂っているときがあった。ベーゴマの最強ごまの制作にはまっていると充実して手応えがあった。
フランスにいたときには、失語症に陥り、しゃべれなくなった。絵に追い詰められていたのだろう。その時ビンゴゲームだけが息が付ける時間だった。もしビンゴゲームが無ければ、行き場がなく、どうなっていたかと思う。
その時々何とかしのいできたのだと思う。いまは、田んぼを耕作して、絵を描いている。それだけをしていれば良い境遇である。これから努力して試験を受けるとか、何か生活のために就職を考えなければならないという事も無い。有り難い立場にいる。毎日絵を描いていても、自責の念が湧かない。
何も考えずにただただ座っているという只管打坐など、何という人生の依存症であろうか。それを良しとするのは宗教だからに違いない。健康に
依存症の人もけっこういる。もう散歩やランニングをしなければ、精神的不安に陥る状態。
依存症の人もけっこういる。もう散歩やランニングをしなければ、精神的不安に陥る状態。
人間依存症に見えるくらい一途にやり抜かなければものにはならない。それが他の人のためにも成る有意義と言われるようなことであれば、実に幸いであるが、そこは自分が決めると言うより、社会や時代が決めているようだ。
精神疾患とゲーム依存症ということで、これから問題が起きてくる。中国では国が法律で、1時間という限度を付けたらしい。そうなると、それより長くゲームをしていると、精神疾患として病院という監獄に収監されると言うことになるのだろう。
中国は国のためになる人間を育てたいのだろう。だからゲームに限度を設けた。国のために不都合な人は、依存症と言うことで病院に入れてい舞うことが出来る。これはちょっと怖いことだ。ベーゴマに熱中していた自分は自分でも困っていたわけだが、政府に病院に入れられたら、さらに悪化しただろう。