オリンピックで学んだ諦めない生き方
田んぼに上げた、鳥追いの凧。棹は釣りざをを購入してその先に付けた。付属品の棹よりも、改めて購入した棹は具合が良い。かなり強い風に吹かれても、棹が対応してくれている。元気な魚を釣り上げる棹だから、けっこう強い物だ。棹が風に対応している姿は実に見事だ。
オリンピックを見ていると、人間のすごさというものが形に表われている。人間の極限が形になって、現われていて人間はすごいものだと思う。人間はあそこまでやれるのだと言うことが、目の当たりに出来る。選手は大阿闍梨と言うことになる。諦めてはならないと言うことである。
オリンピック選手と比べたら、誰だって恥ずかしいくらいのことであるが、人間は誰もがそれぞれの、千日回峰行をしている。10歩歩くことが、限界の人も居れば、10万歩毎日歩ける人も居る。その人の限界で努力することが大切なことだと思う。
オリンピックには勝ち負けがある。勝ち負けは分りやすいことだが、力を出し尽くして負けたのであれば、やはり見事だと思う。オリンピックの試合が自己最高のものであれば、なんの悔いも無いはずだ。悔し泣きをする選手を見ていると必ず学んだ物があると思う。
絵を描いているわけだが、人と比べて見れば、どうにもならない程度のものかもしれない。それでも、諦めずに行けるところまで行ってみたいと思っている。今描く事のできない、おぼろげながら見えている次の世界を、画面に表してみたい。自分の目が見えているところが、画面に現われてくるところまではやってみたい。
見えているのだから、出来ないはずが無いと思っている。技術語り無いから出来ないと言うことや、努力不足で出来ないと言うことだけは嫌だ。自分がまだよく見えていないからかけないのであれば、それは仕方がないことである。
誰にでも夕日をを見て美しいと思うことは一度はあるだろう。その美しいは、えも言われ無いものである。絵にも描けない美しさである。それをなんとか画面の上で表したいのだ。美しいと言ってしまうと少し違うのだが。それが一番近い。
自分に見える田んぼの美しさは、きっと田んぼをやっている者にしか見えていないものだろう。あの田んぼの土の感触は田んぼを散々歩いてみなければ、分からないはずだ。堅いところもあれば、軟らかくドロドロの所もある。
そうした体感した物をふくめて、人の眼は見ている。それに加えて、知識という物も絵には加わる。水は冷たいとか、この水は除草剤の入れられた危険な水だとか、同じにしか見えないようでも、見ると言うことは総合性の上で、見えている。
絵ではそうした違いも、肉眼では見えないかもしれないが、表現されることになる。そのあたりが、絵のやっかいなところなのだ。自分の栽培する田んぼと人の栽培する田んぼでは当然、異なって見える。こうした違いこそ、描こうとする物になる。
私にとって、絵を描くと言うことはそうした見える物と、こうありたいという思いの融合である。だから、いくらマチスがすごいと言ってもああ描けたところで、空しいことになる。自分の世界観が絵なのだ。そこまで諦めずに描きたいと言うことになる。
まだまだ、自分と画面との距離は大きい。どうしても学習したような絵空事が、入ってくる。観念である夕日が美しいという所から抜けきれない。今この眼が見ている夕日に余計な影響がある。眼を曇らせている。それを絵にしているのだから、画面は二番煎じ感満載である。
私の夕日が見えて来ないのであれば、私絵画の夕日の絵は描くことは出来ない。見えると言うことはなかなかやっかいなことだ。美しいと感じたことは見えたからなのだが、そこには記憶や観念が加わり、ありきたりの美しいと言うことになっているのだろう。
美しいという言葉以前に、空そのものがあらゆる時刻に、空そのものである。そのものであることを、そのものであるままにとらえることが出来るのかどうかなのだろう。眼前に、そのものの実態が現われたときをとらえられるかである。
眼はいつもそのものと直面している。常日頃見続けているが為に、その真実性が立ち現れた、刹那の物が眼を通り過ぎている。絵に描こうとすれば、するするとすり抜けて行く。日常的すぎる見ると言うことのために、自分の中で絵を描く見るが混同されてしまう。
刮目して見る。絵を描く目で見る。そこに転がっている石も宇宙である。その石一つを描ききることが出来るかどうか。美しいと言うことはその反映であり、実はどうでも良いことでもある。絵でもない、絵らしき物を見すぎたのかもしれない。
絵を随分誤解させられてきた。それでも今日の一枚が、新たな一枚である。未知なる挑戦である。過去に引きずられる事無く、自分の目を信じて描いてみるほか無い。まだ、今日も描けると言うことは実に有り難い。何でもやってみることだ。
どれほど失敗したところで、恐れることはなにも無い。オリンピック選手は試合に負けて学んでいるのだと思う。むしろ勝って間違ってしまうことの方が多いので
はないだろうか。絵を描く人で、若い内に評価をされて絵がそこで終わった人は実に多い。
はないだろうか。絵を描く人で、若い内に評価をされて絵がそこで終わった人は実に多い。
安井賞を受賞した人の晩年の絵と、授賞したときの絵とを比べると、ほぼ全員が、受賞したときが一番良い。美術学校の卒業制作が生涯で一番良いというような、大家も少なくない。人間をみがくと言うことがいかに難しい物かを痛感する。
むしろ試合に敗れたことを生きる力にすれば良い。負け犬がこういうことを書けば、遠吠えにしか聞こえないだろうが、負け犬の法が粘り強く生きて行くのかもしれない。
それにしてもコロナ下のオリンピックは、辛い物がある。自粛生活をしろと言われても、気持ちはどうしても浮かれるところがある。選手は少しも悪くはない。大いにこの辛い時代の明かりになってくれている。
問題は、安心安全なオリンピックを開催するとした政府にある。少しもそういう手立てが打てないで居る。毎日オリンピック関係者から、10名以上の感染者が出ている。これを見ていて、安心安全では居られない。