食農倫理学

   



 食農倫理学と言う言葉を初めてネットで読んだ。食べる事にまつわる倫理学と言うことになるのだろうか。それなら自分で作ったものを自分が食べることが一番倫理にかなっているに違いない。まだ他に何かあるのだろうか。

 自給自足こそ食農倫理学の根幹になるはずだ。それ以外のことは尾ひれというか、およそ大事なこととは思えない。食べ物を食べると言うことはそもそも倫理に外れている行為である。人間は生きるために、生きているものを殺して食べているのだ。それはそれとして除外して考える倫理というのもありなのだろうか。

 君子は厨房を遠ざく。孟子。これは動物を殺して食べることを意味しているのだろうが、植物でも食べると言うことは命を頂くと言うことで変わらない。食べると言うことに、人間の倫理を考えれば、どこか悲しいところにいたる。

 食農倫理学とはまったく知らない学問であるが、そもそも倫理的に正しい事を学問すると言うことがあり得るのかが不思議だ。東洋では食農の倫理は古くから繰返し問われてきたものである。西洋的学問がこの分野に疎かったと言うことがあると思われる。

 食べると言うことを当然のことと受け止めて、倫理の対象にしないできたのが西洋的倫理の欠落部分である。たしかに学問は宗教では無いのだから、考え方や全体像を把握するのであって、善悪を示すようなものではないような気がするが、この学問は何を倫理の対象とするのだろうか。

 そもそも倫理学というものは、宗教とは違う。善悪というものは究極的には信ずるか信じないかと言うことになる。倫理的に正しいと言うことが善とはいいきれないところに、宗教というものがあるのだろう。倫理学が倫理とは何かを研究するのであるなら、なんとなく理解できるが。

 ファーストフードとスローフードと言う言葉があり、スローフードが倫理的であると言うのでは、学問にはならないの無いだろう。むしろ、貧困層がファーストフードを食べている事を倫理としてどのように考えればいいのかと言うことなのかもしれない。

 フードマイレージと言うことも言われる。遠くで作られた食料は運ぶために化石燃料が消費されている。できるだけ近くのものを食べた方が総合的に見ると、経済合理性がある行いになるというようなことが言われている。これも果たして倫理で判断すべき事かどうか。

 日本で言えば身土不二ということになる。仏教からきた言葉である。私は安藤昌益の考え方と比べてつい考えてきた。万人直耕と言うことを主張した。人間は身分や状況にかかわらず、すべからく自ら耕さなければならないという考えである。大いに共感するところだ。

 農本主義である。耕さざる者食すべからず。人間すべてが食料生産に携わる。これが正しい人間の道だという考え方。安藤昌益は難しい思想であるが、江戸時代末期の共産主義と言われている。自給自足に暮らしていたときには安藤昌益をよく読んでいた。難解で理解が出来なかったが、何か光のようなものを感じていた。

 現代社会における食農倫理は、プランテーション農業の倫理逸脱である。経済合理性だけを追い求めて、農業を行って良いのかである。農業は各国が他の産業とは別枠の、基礎的産業として国家の基本的権利として考えるべき物だろう。

 資本主義が崩壊してきた一番の要因は食料生産とそのほかの生産とを同じ地平で考えるところから、無理が生じてきたのでは無いだろうか。国家の成立の第一の要因として食料生産を上げるべきだ。競争経済がその部分を壊してしまうことで、様々な矛盾が生じている。

 国の食糧自給は、等しくひとりひとりの食糧自給を重要なものとする。人間が生きるあえて倫理と言えば、自ら食べるものを自ら作るという人間の健全な姿なのだろう。この一番原初的な在り方を失うことから、様々な不安定が生じる。

 食糧自給は人間の安定である。禅宗の寺院も食糧自給をした。西洋の修道僧も食糧自給である。食料を自らの手で作る、自給的生活こそ心の安定を産む。自分が生きると言うことを自分の手だけで成し遂げると言うことが重要である。

 僧侶が修行のために自給するように、絵を描くものも自給する必要があると考えたことが、山北の山中で自給生活を始めたきっかけである。その暮らしは楽しかったばかりで、少しもつらいことはなかった。それほど張り合いのある日々であった。

 自給生活を始めてやっと絵を描いて生きても良いという許しのようなものを感じた。絵を売らなければ生きていけない暮らしのインチキさをつくづく感じたのだ。あのどうにかして絵を売って暮らさなければならないと言う仕組みにしがみついていたにもかかわらず、上手くゆかない日々のつらさ。最悪の日々として思い出す。

 追い詰められた気持ちで始めた開墾生活であったが、充実していたし。生きると言う実感が回復できた。絵を描いて生きて良いのだと安心立命。しゃべる一本の自給にかけた。それが倫理の確立と言うのか、自分に課した条件であった。

 化石燃料や機械を使わない。それで
人間は自給できるのか。このことへの興味である。ややこしいことをすべて除き、できるだけ原初的に人間として生きることが出来るのかを確認したかった。これはほぼ五年で達成できた。

 それならばと思い始めたのが、あしがら農の会の活動である。ここからが倫理が複雑になるが、ひとりの自給から、みんなの自給である。ひとりで出来たことを、回りに広げることが自分の倫理にかなっていたのだ。ひとりで終わらせるのでは、自分の倫理が我慢ならなかったわけだ。

 ひとりと、みんなでは違う。みんな出を考えることこそ倫理だと私は考えた。その考えが今石垣島でも老骨にむち打ち、みんなの田んぼを始めた理由である。ひとりでも自給の田んぼを始める人が増えることを願ってのことである。
 やらないと決めていた石垣島でもみんなの田んぼを始めた。それが倫理として正しい道だとおもうからである。正しいと思いながらやらないで居ることは自分が許せなかった。これが老人としての役割ではないかと思うからである。

 みんなで自給すれば、その力は何倍にもなる。それまで一日2時間が自給のための労働時間であったが、みんなでやるようになって1時間で済むようになった。共同の力である。しかも、自分のために頑張る以上に、みんなの為もあればより頑張ることが出来る。それが人間なのだと実感した。

 

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