放射性廃棄物を受け入れるとお金がもらえる地域

   



 北海道の2カ所の村が放射性物質の廃棄地域としての調査を受け入れると表明した。文献調査地区には、20億円の「電源立地地域対策交付金」が交付され、第二段階に進んだ場合には、さらに70億円が交付されることになっている。寿都町と神恵内村が応募を表明した。 

 本当にやるのかどうか、住民投票が行われることになったようだ。何故、受け入れ調査を表明したかと言えば、調査するだけで、20億円がもらえることになるかららしい。何という社会になったのかと思う。すでに予算案では10億円が計上したという。

 この交付金で人を動かすやり方の一番悪い点は、原発反対の人からは、この地域の人が良く思われない。お金のために受け入れなど希望する人がいるから、無くすべき原子力発電がなくならないのだという気持ちである。つまり日本を分断してしまう政策である。政府は原発の是非という問題の本質には向き合わず、お金で都合良く問題をすり抜ける。

 こういう補助金制度は、原子力発電所を受け入れた地域には交付金という形で、様々な報奨金が出ていた。つまり、みんなが嫌がる物を受け入れたのだから、恩恵としての報奨金がでて当然という仕組みなのだ。電力会社も様々な形で地域へのお礼金のような物を出している。

 地方の自治体の中には消滅の危機に陥っている自治体も少なくない。消滅するくらいなら、原発の受け入れの選択もあるだろうと言う自治体が出てくる。その意味でいえば、福島原発事故の後、首都圏の電気を受け入れていて、こう言う事故が起きた。福島が首都圏の犠牲になったと言う声が、福島の地元から出ていた。

 私は少しこれは違うと思った。原発を受け入れた責任はその地方自治体にある。受け入れ支持の町長を選び、議員を選び続けたのは住民である。住民投票をやれば良かったのだ。誘致派の政治を選んだのは地元民ではないか。それで事故が起きたのだから、首都圏の人達を恨むの筋違いだと感情的な反発を感じた。原発の爆発の不安からだった。

 今も各地で原発受け入れを表明している自治体が後を絶たない。大きく見れば、交付金を貰いたいと言うことが主目的ではないのだろうか。そして原発という職場である。こう言うお金で人間の心を動かすというやり方は、いつの間にか日本の政治手法に定着した。実際交付金がなければ何も動かない社会なのだろう。

 福島の汚染度も、汚染水も、結局はお金で解決すると言うことになるのだろう。それ以外の方法はどう考えても見当たらない。見当たらないとは思うが、そういう手法で処理して行くことで、人間や地域社会をだめにして行くのだろうと思う。

 沖縄では普天間基地の辺野古移転を受けれれば、交付金を与えると政府は常々主張している。地元名護市の市長が稲嶺氏に変わったために、交付金は打ち切られた。そして、名護市市長選では辺野古米軍基地容認派である渡具知武豊が市長に当選すると交付が再開された。 市長の当選の原因は交付金が大きく作用している。

 米軍再編交付金は、2007年4月に制定された米軍再編推進特措法に基づいて交付される。米軍再編計画への協力度に応じて地方自治体に交付されるこの交付金は、協力しようとしない自治体への交付はなされない「報奨金化した振興事業」である。 

 これは県知事選でも同じことが行われている。米軍基地賛成の知事が当選すれば、自由に使える交付金を与えると、選挙前にはいつも大いに宣伝する。それでも今のところは自民系候補は当選できない。お金には換えられないほど、米軍基地の被害は大きいからである。これもお金で動かそうとするに違いない。

 政府が沖縄県に、建設予定海域の埋め立てを承認するよう申請していたことがある。補助金が大幅増が約されたのは、安倍晋三首相と仲井眞弘多県知事との会談がなされた2013年12月25日である。その2日後、仲井眞知事は、政府が申請していた辺野古沿岸域の埋め立てを承認する。増加した459億円は、沖縄の国策への貢献に対して支払われた報奨金である。抗して裏切り者としての仲井真氏が誕生した。

 この報奨金制度という物は社会を分断する原因になっている。この文章の前の部分で、お金を貰って原発を受け入れておいて、事故が起これば、人の責任だけにできないと書いた。お金が原発反対の私と地元住民とを分断させている。

 今度は翁長氏が仲井眞氏を破って沖縄県知事に当選すると、沖縄関係予算は減額され、2018年度以降は3010億円で固定となっている。しかも2019年度からは、予算額のなかに、市町村に政府が直接交付することのできる「沖縄振興特定事業推進費」が組み込まれており、政府は意向に沿う市町村への恣意的な交付ができるようになっている。

 政府は、通常の再分配というべき沖縄関係予算をも、報奨金的に交付するようになった。これは予算措置を通した沖縄の自治への介入である。2018年8月に逝去した翁長前知事の遺志を継ぎ、辺野古への基地建設反対を公約に掲げて当選した玉城デニー知事は、今も反対の立場を取り続けている。

 知事の任期が終わる2022年は、沖振法の5回目の更新を迎える年でもある。更新に向けた議論は2021年度中になされるだろうが、政府が「更新しない」という選択肢も
含めた交渉を進め、圧力をかけてくるに違いない。

 受け入れ住民にしても、報奨金制度がなければ、受け入れたくないだろう。地域存亡の危機で、やむを得ず受け入れる選択である。本当は責められる立場ではない。これは米軍基地そのものを反対の私と、止むえず受け入れる人達との間にも分断を生んでいる。

 こうした嫌な物を受け入れるときにはお金が出るという政治手法は今や一般化されているとも言えるだろう。お金をもらうことで、お金を出す側への貢献を義務づけられてしまい、しかも貢献ができないものはお金をもらうことができなくなってしまう。こんな社会のことを、「報奨金化した社会」という。

 この「報奨金化した社会」では、誰もが不安を抱えながら生きていかなければならない。そして不安を直視したくない人たちは、自分たちが政府側の多数派に属しているという実感を持つことで、安心を得ようとしているのだろう。時に、マイノリティへの非難や排除へと接続していく。

 だがそうやって得られるのは、束の間の安心でしかなく、こころからの安心感は得られない。だから、本当に安心して暮らすことのできる社会をつくるためには、まずこの「報奨金化した社会」の論理を排し、否定していかなければならない。それは、「誰一人取り残さない」インクルーシブな社会を実現するための、とても大事な一歩なのである。

 

 - Peace Cafe