第45回 水彩画 日曜展示
第45回 水彩画 日曜展示
しばらくの間は中判全紙の大きさだけである。
200「屋良部岳からの崎枝集落」
2021.3
201「名蔵アンパル」
2021.3
202「グラスボートの眺め」
2021.3
203「五竜岳から鹿島槍の残雪」
2021.3
204「富士」
2021.3
205「信濃川」
2021.3
206「宮良川上流部」
2021.3
207「フキサの耕作地」
2021.3
少し絵が動き始めている。絵が動くことはよいことだ。自分の意志で絵を変えると言うつもりはない。自分の何かを探しているのだから、自分の見方が変わるとか、自分という人間が変わらない限り、絵が変わると言うことはない。
北斎流の毎日1枚描くという事で、身体が絵を描くようになってきた気がする。ある意味自動的な描き方で、長い間避けていた描き方である。脳が自分であるから、脳で描きたいと思ってきたのだろう。ところが、最近描き続けている間に、半分位は手が絵を描いている。
頭では行き詰まっている絵を、手が突破していることがある。ああそういうことかと、手に教えられる。脳より手が上だとも思わないが、手の方が大胆である。手はためらわない。手には失敗がない。手は絵に責任を感じていないようだ。
職人のように、手仕事と言うことだ。危険である。だからギャラリーでよほど絵を見ている。脳の命令に手を従わせなければならないとおもう。
202番の「グラスボートの眺め」は竹富島でグラスボートに乗って描いた絵である。珊瑚礁の海底の景色である。何かおかしな絵ではあるが、一応残すことにした。珊瑚が死んでしまい、白化したものが異様な空気だった。
又、この絵だけギャラリーで
撮影した。いつかすべての作品をちゃんとしたカメラで撮影し直すつもりでいる。その時は室内で撮影のセットを作ろうと考えている。その時にどんな移りになるか、試しに一枚だけ写してみた。光は大丈夫なようである。
撮影した。いつかすべての作品をちゃんとしたカメラで撮影し直すつもりでいる。その時は室内で撮影のセットを作ろうと考えている。その時にどんな移りになるか、試しに一枚だけ写してみた。光は大丈夫なようである。
実は番号が間違えていて、7枚のつもりが8枚になり、抜けていた202番にグラスボートの絵を後から加えた。もちろん記憶で描いたものだ。最近記憶で描く絵が多い。記憶で描きながら、風景を見ながら描いているのだから、少し違和感がある。
絵その風景を前にして、実は記憶の風景を描いている。記憶に残っている風景は色だけであったり、そこにあった線の印象だけであったりする。それだけであると、現実感がなくなる。現実でありながら、記憶であると言うようなものを探っている。