あの日から10年が経った。
あの日から10年が経った。時間というものは、どんな10年であれ、その時代の空気を反映した速度で過ぎて行く。長い、かなり長い10年であった。様々な挫折感はそれまでにもあったのだが、これほど決定的にもうダメだと感じたことはなかった。
回復期の10年だったのかもしれない。まだ完全に直り嫌いうちに、次のコロナのパンディミックだ。次の悪夢が始まることもそう遠くないのかもしれない。そう思うと、今やれることをやりきらないないわけにはいかない気持ちになる。
あの日は東京の銀座の水彩人展の会場で東日本大震災を体験した。オープニングパーティーを始めようかという時のことだった。無意味に大丈夫だ。大丈夫だ。と言っていたことを覚えている。その時には東北で地震が起きたと言うことだけしか分からず。パーティーを続けていた。
そのまま小田原には戻れず、水彩人の仲間の佐瀬さんの息子さんのマンションの一階のロービーで一晩泊めて貰うことになる。部屋に来なさいと言ってくれたのだが、立派な大きなロビーで、すばらしいソファーとおおきな暖炉まで燃えていて、コンビニまで館内にある豪華マンションのロビーで、十分すぎる場所だった。
こんな幸運な帰宅困難者は少なかったことだろう。豪華な温かい場所で一晩いられたことは、不安のまっただ中では有り難いことだった。翌日何とか小田原までたどり着いた。それから東北の様子がわかると衝撃を受けた。兄が岩手にいるので、連絡を取ろうとしたが、連絡は付かなかった。
原発が爆発するかもしれないと言うことであり、外国人はすでに母国に脱出を始めているなどと言われていた。何が本当であるのかを調べることに必死だった。今思えば、自民党政権でなかったことがまだましだったのだろう。自助でお願いしますなど言われかねない。
原発は危うい状況が続き、オロオロするばかりであった。そして、1年間絵の描けない状態に陥った。原発事故ということが自分の中で消化しきれなかった。文明の転換期と言うことだと思うほかなかった。転換できなければ、日本はこのまま衰退の道を下ることになる。
それからの1年間はじつに苦しい一年間だった。農の会の活動も停止状態になる。放射線測定ばかりしていた一年だった。絵を描こうとすると何故か吐き気がしてしまい、食べて物を戻してしまう。自分のどこかが壊れたような来がしていた。
何も出来ることのないなか、タッズさんに協力して、福島からのペットの救助活動に関わった。タッズさんは今も続けている。今石垣島で一緒に暮らしている猫2匹は飯館村から救出された猫だ。だから、10歳と言うことになる。預かった2匹の犬はすでに死んだ。
一匹のセントバーナードは、南相馬まで尋ねてみたのだが、飼い主の生死も分からないままだった。もう一匹は1ヶ月飲まず食わずで、つながれていて発見された犬だった。命からがら、飯縄温泉まで逃げた飼い主が、やっと消息が分かり小田原まで尋ねて見えたときだけ、わずかに反応があったが、その翌日に死んだ。生き物の哀れさをつくづく感じる。
原発事故で絵が描けなくなり1年が経ち、やっと描けるようになった絵が、夜の海の絵であった。電力制限の真っ暗な夜の町を茅ヶ崎の風呂屋まで行った。帰りの湘南バイバスの休憩所から見た海だ。鎮魂の海。無数の命が光っているように見えた。これは描けないとしても描かないと行けないと思った。絵を描くという使命のような物を初めて感じたことだった。
それから、病気からの回復のように徐々に通常に戻ったが、文明は転換することはなく、日本は衰退の兆しが年々強まった。日本人は大震災と原発事故に精神をやられて、まともな思考が出来なくなってしまった。先祖返りしたように、明治維新をもう一度というような過去の栄光にすがるような、没落して行く典型のような10年を歩んだ。
そして、コロナである。この文明の方角では人類は滅亡の危機に陥る。そう何かが繰返し教えてくれているように感じる。それを受け止められない社会。もう崩壊の予兆なのかもしれない。戻ることが不可能なほどの環境汚染が進んでいる。自然災害は次第に巨大化してきている。
格差社会。日本の貧困層の増大。見えない形の貧困が徐々に広がり、遠からず悲惨な終末を迎えることだろう。日本が国家としてまともに機能しなくなっている。そのまともではない、政府を支持するしかないとする若い人が増えているとニュースでは解説している。
自分だけが、自分の国だけがと、強国の対立が深まっている。この緊急事態下でも利益を上げる人は莫大な利益を上げ、職を失い生きることもこんな人が増加する。世界は終末期間近の様相である。その生活困難な人に対して、総理大臣が冷たく最後には生活保護があると嘯く。
民主主義は風前の灯火となっている。個人主義の蔓延が民主主義を衰退させているのだろう。努力をすれば、何とかなるような世の中ではもうない。避ける以外にないような社会である。もう一度世界大戦が起こるのかもしれない不安がある。人間の愚かさという物がつくづく嫌になる。
これほどの下り坂の中でも、
前を向いて道を進むほかない。歩く禅を試みているが、上り坂の方が気持ちは整うようだ。下り坂を歩くのでは心が落ち着かない。上り坂では心臓は苦しくなるが、気持ちは集中して行く。苦行と言うことの意味が少しだけ分かる。
前を向いて道を進むほかない。歩く禅を試みているが、上り坂の方が気持ちは整うようだ。下り坂を歩くのでは心が落ち着かない。上り坂では心臓は苦しくなるが、気持ちは集中して行く。苦行と言うことの意味が少しだけ分かる。
楽をしているだけではやはり心は深まらないのかもしれない。原発事故というひどい体験をして、少し進んだ物はあるようだ。絵はそれ以前とその後では変わった。私絵画に向かった。今は禅画なのかもしれないという気持ちまで来た。これはコロナの御陰である。
原発事故では農の会はお茶を廃棄処分させられた。農家である人達は賠償金がもらえた。ところが農の会は自給目的なのだから、賠償はできないと言うことだった。これは余りに理不尽であると東京電力と交渉を重ねた。最後の交渉は3年ほど前になるが、この時みえた方はもう定年だそうだ。
その方は、農の会が被害を受けたことは理解している。農の会の自給は、単純な自給ではないと言うことも理解できる。しかし、原発事故賠償法の中では賠償が出来ない。自分もおかしいとは思う。申し訳ないと思うと、涙ながらに謝罪された。
この方は長年東電に勤められていて、社会に対して貢献しているつもりの人生であっただろう。私のいとこも東電に勤めているから、社員の気持ちが分からないわけではない。ある日、とつぜん自分の立場が加害者になったのだ。辛い勤めだったのだろう。
良かれと思い頑張ってきた生涯が、加害の立場にとつぜん変わる。そして攻められる意味を充分以上に認識している。もうこの人は心が破綻する寸前だと感じた。そういえば私も随分涙を流した。心が危ういところにあったのだろう。今でも津波の映像は見たくない。原発の映像も見たくない。刺さってくる物があるのだ。
亡くなられた方々に観音経を諷経し、焼香をさせていただく。合掌、礼拝。