曹洞宗僧侶としての笹村出雲

   



 私は曹洞宗の僧侶である。僧としての名前は出雲スイウンである。お寺とは関係のない修行者のつもりで生きてきた。僧侶と言っても全く偉そうな物ではない。そもそも世の中で一番の役立たずが僧侶と思っている。僧侶であることことは自分だけのことだと思ってきた。

 僧侶も現代の宗派では資格のようなもので、正式な曹洞宗における資格を得て、僧籍というものがある。たぶん本山には私の名前も記録されているのだろう。自分の意志でそうなったのは確かなのだが、周囲が整えてそのようにしてくれたことだ。そうしないとおまえは僧侶であることを忘れてしまうから、と言われた。
 
 得度をしたのは中学3年生の時である。祖父黒川賢宗のもとで剃髪し、得度をした。高校3年生の時に茅野参禅道場頼岳寺三沢智雄先生のご子息の入山式に際して、弁司を務める。大学2年の時に山本素峰老師の入山に際して首座法戦式を務める。35歳の時に総持寺において僧侶となる。これは世田谷学園に勤務していたからである。

 寺院とは離れて生きてきたが、いままでも僧侶のつもりで生きてきた。恥ずかしい人生ではあるが、死ぬまで僧侶のつもりである。ただ僧侶と言っても相当な身勝手自分流であって、葬式などとは関わりはない。道元禅師も葬式などしたことはないだろう。葬式仏教というのは江戸時代からのことだ。

 考えてみれば、道元禅師も当時としてはとんでもない人だ。正法眼蔵を読んでみると、とうてい只管打坐の人には思えない。よほど学問をしなければ、あの深い思索は不可能だと思う。中国語だって学んだのだろうから、ただ座っていたわけではないだろう。こう言う屁理屈を言うから良くない。

 生まれたのが山梨の山の中の小さなお寺だから、僧侶になったとしてもなんの不思議なことではない。そうした因縁はあるのだと思う。中学生の頃、三沢智雄先生にお会いして、あまりの人間のすごさに驚いてしまい、坊さんというのは実にえらいもんだと思い込んでしまった。思い立って坊主になることにしたのだ。

 ただ、只管打坐というものが私には出来なかった。お寺には只管打坐そのものという人はいる。そういう人はまるで物のようで、驚くべき物だが、私にはほど遠い異世界のことだった。坊さんになれば三沢先生のようなすごい人になれるのかもしれないと思い、坊さんになったというあきれた動機である。

 中学生の頃、少し精神的にあやうくなった。聖路加病院の精神科に行って、学校を休んでしばらく松本の田内さんのところで暮らさせてもらった。こういうことのお礼も言わないまま田内さんは亡くなられた。今は思い出すことも出来ないのだが、小学校の頃もそういうことは何度かあった。何が何やら分らなくなってしまうという感じだった。

 同じ時間を繰返し過ごしている。リピートされる映像の中にいるような感じなのだ。何度も同じ場所を繰返し歩いていて、いっこうどこかへたどり着くことがない。堂々巡りをしているのだが、それが映像の中の自分が何度も再生されているような状態である。これは今だから整理して説明できるからそうなる。

 その当時は頭がただぐるぐるしているような思考停止状態であったと思う。それでこのままではまずいと言うことで、三沢先生に出会ってしまった。三沢先生は別段通っていた学校の先生でもなかった。たぶん、三沢先生は当時は鶴見女子大におられたのだと思う。

 鶴見までお尋ねした。先生は大学の寮に住まわれていた。ただ一緒にテレビを見て帰ってきただけなのだが、すっかり感銘を受けてしまった。何故か分からないが吸い込まれるような感じだった。その時、夏に頼岳寺に来たら良いと言われた。頼岳寺では世田谷学園の宗内生の修行のような物が行われていた。

 参加する以上得度をしなければならないと考えて、祖父に頼んで得度をさせて貰った。両親はそのことに何も言わなかった。祖父は喜んで頭をそってくれた。別段、何故得度するのか、など聞かなかった。聞かれても何故僧侶になりたいかは答えられなかっただろう。

 それからもう57年僧侶と言うつもりで生きてきたことになる。今は毎朝動禅をしている。僧侶のつもりだからそんな考えかたをするのだろう。座禅は出来ないから、動禅を続けている。少しは僧侶らしいかもしれない。そして、禅画を描いている。禅画と言えばすごい誤解を受けるので書きたくないが。これも又私流にすぎないが。

 毎日絵を描いて、その絵が自分であるといえるような絵を目指している。あくまで目指していると言うことで、出来ているというわけではない。修行僧である。修行の途上である。出来ないながらも絵が一番自分に近いのだ。

 こうやって文章を書いているのも修行の一つのつもりではあるわけだ。そんなことを書けば嫌らしいことだ。勤行である。日課である。本当は口にしない方が良い。毎日一つ文章を書いて、毎日1枚の絵を描く。毎日動禅を行う。これが私の僧侶としての楽しい修行の日々である。つまり破戒僧の一つの生き方である。

 すべてやりたいからやらして貰っている。自分勝手に僧を名乗り、許されることなのか、本山からは怒られるようなことなのかは分からない。幸いなことに僧侶としての師
匠の方々は皆亡くなられてしまった。それだから出来るのかもしれない。

 師匠の方々が生きておられた頃は、こんな自分勝手な気持ちには全く成れなかった。恥ずかしくてとうてい知られたくなかった。僧侶であると人に言えるような気持ちは全くなかった。それがこの歳になると、いい気なものである。こんな驚くべき文章を書いている。

 ただ、どこから来て、どこに行くのか。これを考えるのが僧侶の道だとすれば、私のような修行僧がいても許されるのかと思う。自分が何者であるかを確かめるためだ。衆生を済度する。などと言うことは全く考えていない。それは道元も同じだと思う。

 朝動禅を終わって、気持ちよく風呂に入る。すると、窓の外から桃林寺の鐘の音が鳴る。お寺のことを思い出す。お寺には近づかないようにしてきたのだが、石垣島では寺の鐘の音が聞こえるとは、これまた因縁である。
 

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