2021年書き初め
書き初めは「車画堂」と「石敢當」である。1月2日に書くことにしている。車画堂はアトリエカーのことである。裏文字を書きたいと思ってのことである。画車堂にするか迷ったのだが、シャガが山北の家には沢山咲いていたことを思い出して車画堂にした。
於茂登岳神社で汲んできた水で書いた。これも毎年の手順である。やはり水道の水では書き初めにはならない。同じと言えばそうなのだが、書き初めという気分になるにはお水取りの必要がある。これで少し字が上手になる。上手は絵の外と言うから、まずいのだが字は上手の方が良いだろう。
石敢當は魔物は直進しか出来ないという中国のまじない文字である。石垣島には門門に置いておくまじないの石が至る所にある。私の家は袋小路の突き当たりなので、その突き当たりには置かないわけには行かない。駐車スペースの奥だから、人様に見えるわけでも無いのだが、まじないなのだから見える見えないは関係は無いだろう。
この石は白保の石切場でいただいた御影石である。石のあるところをぶらぶら眺めて歩くのが昔からの趣味なのだ。絵を見て歩くより面白い。この石敢當を書いてくださいと言わんばかりの石が落ちていたのだから不思議だ。誰かが割り出したとしか思えない形なのだ。偶然がこんな形の石を作り出して、私に出会うのを待っていたのだからおもしろい。
ともかく石を見るのは好きだ。大学のときに地学実習という授業があり。石の名称をある程度覚えた。少しだけ石の名称も分かる。石垣島には多様な石がある。中には庭石としてなかなか良い石もある。石敢當の下にある石も見事な風合いの石で、つい拾った石だ。
しかし、古い石垣の家の庭石はサンゴの石である。どうも私には庭石として良い風情には見えない。これは島の人との感覚の違いなのかもしれない。やはり庭石は少し硬い石の方が良い。水石だって硬めの石である。何故珊瑚石が庭に置かれるのだろうか。確か中国には珊瑚石の庭石があった。そういう影響なのだろうか。
日本庭園風の庭石となると、珊瑚の石では違うと思うのだが日本風庭園と言いながら珊瑚の石が置いてある。珊瑚庭石が並んでソテツやへごがあるのでは日本の情緒とは大分違うと思う。でもそれを京風庭園と想像して造園したらしい。説明書にはそうある。
石敢當も珊瑚の石に刻まれたものもよくある。風化してかすかに読める。私がいただいた石は御影石系である。最初は文字を彫ろうかと考えたのだが、堅くて大変そうなので止めた。文字を書いて、消えたらば又書くことにしていた。最初に書いた文字が一年で消えたので、又新しく書いた。
今度はアクリル絵の具で書いた。しばらくは消えないだろう。書く前に少し表面を砥石で磨いた。前回は割り肌だったので、書きにくかった。今回は適度に均したので、前よりは良い感じに仕上がった。今度描く時には回りの割り肌も整えようかと思う。
石敢當の文字はまじないだから、力士文字のように力強くしたかった。そう思って書いたらばこんな字になった。文字をドウしようという意識よりも気持ちが字には反映する。この石が置いてあればコロナも我が家には入れないことだろう。ちょっと頼りになりそうな字だ。
車画堂は裏文字でかざった。こちらは真面目な気持ちで書いた。布は結城紬の手織りの白布を柿渋で染めたものである。柿渋で染めた感じが古びていて好きなのだ。下にフェルトや新聞紙を引かないで書いた。にじむようにである。その加減が難しかった。裏から見てどうなるかは分からないで書いているのだから、出たところ勝負である。
それでも、予定したとおり、裏から見た方が面白い。その上車画堂と読める。左右対称文字はここが面白い。下手なところがよりごまかせる。いや、下手なところが強調できる。下手は上手よりやはり難しいものだ。下手は絵の内。車画堂は今据わっている脇に裏にして張ってある。
絵の方の描き初めは特別にしない。正月も代わらず同じの暮らしだ。1日から、描きに行った。暮れから描いていた絵の継続である。今年の正月は太陽も顔を出し、暑いような三が日。風は強かったけれど、気持ちよく絵が描けた。
絵が少し詰めすぎているような気がする。筆を変えて絵が細かくなったと言うこともある。筆の数を増えてきたと思っていたら、いつの間にか太い筆は余り使っていなかった。新しい年である。気持ちを一新して、ゆったりして描いて行こうと思う。
石垣の明るいおおらかな空気を、含み込むような絵を描こうと思う。絵のことで言えば、課題は3つである。毎日絵を描く。アトリエ展を開く。東京で絵を展示する。この3つを目指してすこしづつ動いて行きたいと思う。