春、笛吹市の懐かしさ。
藤垈の方から、遠くに寺尾の見える夕景である。この空は何が起きているのか。写真というものも不思議である。空間が動いている。写真だから不思議なのだが、絵を描いていても、風景というものはいつも動いている。動いているけど見えない。見えないけれど動いている。あらゆるものは動いている。その見えない動きをとらえることが、風景を描くという事になる。空だから、一見何かがない場所に見えるが、空気というものがある空間である。一杯に空気は詰まっている。その満杯の空気は山をも動かそうとしている。山というものがどっしりある空間も、実は同じ空間であり、絵を描くという眼で見ているという意味では、山も空も同じことになる。だから色彩というものになる。絵の上ではすべてものという意味よりも、その様な動きの方が大きなことになる。
ここを3日に渡って描いた。絵である。あの写真だと遠くに行ってしまう、南アルプスが、目の前に迫っている。さらに遠くにある空も頭上にもある。だから、遠くだからとか、近くだからとかいう、遠近法的な見方は私の中ではあまり意味を持たない。自分の中にある記憶の空間のようなものを、妄想しているのだろう。この点は定かではない。妄想と言い切ってしまう方がまだ近いという事に過ぎない。自分の頭の中にあるすべてが、グルグル回りながら、目の前のものに対応している。絵を描くという頭もあるのだろう。子供の頃見た景色という事も現れるのだろう。何を目指して何処に行くのか、見ているものを見ているようにあらわそうとしているのに、何もわからなくなる。
甲斐駒ヶ岳、北岳、間ノ岳、農鳥岳と南アルプスが連なっている。
見ているままに描いているのだが、まるで違う事になっている。絵を作ろうとか、絵を描こうとかそういう事は極力あたまに浮かばないようにしているのにと思う。人間が見ているという事の摩訶不思議。見えるようで見えない。見えないようで見えている。どういうことなのだろうか。ジャコメッティがその人がいないとしたときの空間を見るといっている。そこに何かが存在するという事で、空間がゆがみ押しやられる感覚。見ているものがない時を見ようとする。ものがあるという実感に至ろうとする努力。ものがあるという事は、空気であれば、山であれば同じである。空気であるから、無いという訳ではない。空気があるという事で起こること。
出来れば桃の花があるうちにもう一度描きに来たいものだ。石垣に越したらば、もう簡単には描きに来ることはできないことになる。そう思うと春の藤垈あたりを、自分の絵として描いておきたい。自分の何かがわかるかもしれない。どうも人間というのは3,4歳までで物を見るという空間の意識は固まるらしい。その年齢に目が見えなかった人には、空間を把握する能力が少し異なるらしい。資格というものが確立される時期は案外子供のころらしい。ここ頃の体験が今の私の絵になっている理由のような気がするのだ。だから、今の私が、3,4歳の子供のような目で、空間をどう把握しているかを絵で確かめておきたい。