72歳の誕生日である。

   


 水牛のわかばである。水牛の世話をして2ヶ月ほどになる。3反ほどの昔田んぼだった草原で水牛は暮らしている。1頭の水牛には充分な草の量があるようだ。草原のなかをうまく移動させて、草を食べさせている。水牛はとても優しい動物だ。

 水牛を飼えるような体験が出来るとは思わなかった。生きていればおもしろい何かが起こるものだ。最初は大変なことだと思ったが、2ヶ月無事飼うことが出来て大分様子が分かった。この調子であれば、このまま飼い続けることも出来るかもしれない。

 歳をとったものだ。1949年8月21日山梨県境川村藤垈の向昌院の中二階で生まれた。標高400メートルほどの山中にある曹洞宗の山寺である。頭はいくらかボケたと思われるが、石垣島で田んぼをはじめて、毎日絵を描く幸せな日々を過ごしている。

 元気とはいえ、先日はキャッシュカードを無くしてしまい、再発行をお願いした。こういうことは初めてのことである。何でもしまい込みすぎて分からなくなることはあったが、無くしてしまうと言うことは無かった。うっかりする前提で無くさない工夫が肝心。カードのしまい方を変更した。

 頭を鍛えるためにもブログを続けるのは悪くないはずだ。ブログが怪しくなってきたならば、本格惚けの始まりだから、読んでこれはおかしいなと気付いた人は遠慮無く教えて欲しい。ボケの怖さはボケてしまえば自分では気付けないという所にある。この点他の病気とは少し違う。自分で病院に行く初期痴呆症の人は少ないのだろう。今だって怪しいと言えば言えないことも無い。

 人と話していて同じことを繰り返していることに気付く。これも前にはそれほどでは無かった。昔のことを何度でも話しているというのは、大分怪しいことだ。色々怪しくなってきていることはある。こういうことは回りの年寄を見るとすぐ気付く。自分のことだけ分からないというのが人間の常である。それでも72歳を無事迎えられたのだから、幸運である。

 身体の方は元気そのものである。かつて無いほどである。オムロンの身体年齢では41から43歳である。有り難いことだ。毎朝の動禅体操の効果ではないかと思う。食べたいものを食べたいように食べ、毎晩酒を飲んでいる。それでも体重は54キロ前後に維持されている。

 55キロを超えたら、酒は飲んではならないと決めているのだが、最近はそういう日もない。暑くて汗をかくせいだと思う。油断すればすぐ増え始めるので要注意。お酒は泡盛で100ccまでである。健康飲酒量の範囲である。わずかに酔う程度であるがこれで我慢できる。なんとか我慢している。

 すべてはもう少し絵を描きたいからである。これで終われば絵が作り物で終わりそうだからだ。目標にしてきた絵がこれでは耐えがたい。自分というものがどうにもならないからである。100歳まで絵を描き続ければ、納得が行くのではないかと思っている。諦めもつくと言うことかもしれないが。

 道元禅師はいわれる、「生をあきらめ、死をあきらむるは、仏家一大事の因縁なり。」出来ないと言うことを出来るように努力する。そうであれば、絵を描くことは、まだまだ納得できない。このでっち上げ感をいつか払拭できるのだろうか。ともかく生に固執して諦めがつかない。

 体組成計の数値で言えば、体年齢41歳から43歳である。この数値の理由は分からないが気持ちとして、都合良く信じることにしている。タニタとオムロンの体組成計では数値が違う。オムロンの方が若いのでそちらを使っている。タニタは誕生日を一年変えたらば、一年身体年齢も年寄に変わった。それ以来信用しないことにしたのだ。

 もう少し本当の身体が測定できる機器は出来ないものであろうか。今のところ一番良い身体判定は、内観法である。動禅の中で静かに自分の内部を感じてみる。おかしいところがあれば、何かを感じるのではないかと思っている。今のところ変化は無い。

 72歳の一番の目標は石垣島田んぼを成立させることである。イネ作りは身体が普通に動く内で無ければやれないことである。まだ、身体は充分に動いている。あと10年動くことが出来れば、石垣島田んぼも何とかなるかと思う。石垣島の厳しい気候条件では大変なことである。

 何とかなるというのは、有機農法による畝取り技術の確立である。きびしい病害虫、気候の中でどんなやり方があるのか、実践研究をしたい。かならず道はあるはずである。その時には小田原で行った30年間の稲作技術が生きるはずである。

 西表島には石垣金聖さんという方がいる。その方を中心にした「生々流転」というドキュメント映画が無料公開されている。美しいドキュメント映画なので見ていただきたい。金星さんは唄者である。そして、自給のイネ作りをしている人である。

 こういう方がおられることを今回初めて知った。本当の暮らしをしている人が西表島にいた。日本中にこうした人が増えることが希望である。この場所こそ、立ち返るところでは無いかと思う。日本は急速に消えようとしているが、いつだってここに立ち返ればやり直すことが出来る。石垣島にはそうした希望を持って移住している人も
居る。

 石垣島に自給の田んぼが定着することが、72歳の今の希望である。石垣島という自然豊かな島に、自給の稲作が根付く事ができれば、日本の方角になるのではないか。そのために出来きることをやってみようと思う。先ずは技術である。誰でも可能な自給イネ作りを実現することだ。

 そのためには仲間作りと、連携である。あと10年すれば、石垣島のイネ作りは継続困難な状況に陥る可能性が高い。本島ではすでにイネ作りは無い。石垣島では80台で今イネ作りをしている人を多く見かける。経済性とは関係なくイネ作りが続いている。しかし、その後継者となると、続けられる人は減ってしまうないのではないか。

 石垣島に田んぼが無くなり、サトウキビやパイナップルや草地だけになれば、珊瑚礁は赤土で痛めつけられるだろう。水資源も危うくなるはずだ。石垣島の環境のためには水田稲作を減らさないことが重要なことになる。まず田んぼが無くなる危機に警鐘を鳴らすことからだ。

 与那国島がイネ作りの継続が危うくなっている事がその先行事例である。食糧自給の可能な島でありながら、イネ作りが継続できなくなる。もしそれを食い止めることが出来るとすれば、経済性だけでは無い、生き方としての自給活動を考えるほか無い。

 先ずは永続的に使わせてもらえる田んぼを見付けなければならない。今年中に見付けなければ、1月からの苗作りに間に合わないことになる。田んぼはいま8葉期である。分ゲツ数は平均して6本ぐらいだろうか。かなりニカメイチュウが出ている。2期作の困難を痛切に感じているところだ。

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