福島原発事故7年

   

あの日がまた来た。原発事故から7年が経ったのか。あの日が日本の曲がり角であった。日本がどうしようもない国の仲間入りした日である。私の中にも日本人は他の国の人々とは一味違う良さがあるという意識があった。瑞穂の国日本である。繊細な感性を持ち、勤勉に努力のできる人々。第2次世界大戦を起こしてしまうという大失敗をしたのだが、その焦土から経済復興を成し遂げることができた。そんな気持ちを持っていた。しかし、あの日を境に、日本人はどうにもならない重いものを抱えている。他民族にない始末に負えないものを抱えているという気持ちが重くのしかかっている。その象徴がアベ政権であった。やることなすことどうにもならない競争主義。拝金主義。武力主義。そして、議会制民主主義の崩壊。日本においてこれほど強欲に満ちた政権は初めてであろう。一番でなければいけないと叫ぶ背景にある。世界の新しい潮流に追い抜かれ、追いつけない焦り。

福島の避難地域の人のいなくなった町の映像。原発が作る明るい未来の悲惨な結末。日本が歩もうとした未来は、全部嘘だったという絶望感から抜け出ることができない。それでも原発を再稼働するというアベ政権の存在に、日本の未来は原発の放射能で霞む。発展神話の文明の転換点だと感じる。未来は必ずしも発展の先にあるもののではないようだ。文明は危うい瀬戸際に踏み込んでいる不安。農の会では原発事故で起きたことを記録することになった。原発賠償請求を止めて、当時のことを記録することになった。どれほど悲惨なことも日ごとに忘れてゆく。忘れなければ耐えがたい。あの頃にはあしがら平野も人が住めなくなるという講演会まで開かれた。不安が不安を呼び、息苦しいような不愉快な気持ちで暮らしていた。それぞれが記憶している断片を書き留めておくことにしたいという事になった。それほどのことはできないと思うが、大切な記録を書き留めて、一応の区切りを付けたいと考えている。

農の会がこうして終わるのかという、絶望的な気分に陥った。差別される側に立ったという事なのだろう。放射能で汚染された農地で、汚染された作物を作る人たちという差別。差別する人も放射能の不安でいたたまれない人たちである。農の会に集まった人は安全な食べ物を自給しようという人たちだったはずだ。放射能で汚染された土地でもう農業は出来ないという気持ちに支配された。当然、この土地から離れてゆく仲間も多かった。私は卵を販売して暮らしていたのだが、放射能で汚染された卵を販売するのは許されない行為だと言われた。安全という範囲が見えなくなった。どれほど少量の放射能も危険だとされた。土壌にカリウム肥料を入れることは放射能があるから危険だという事まで言われた。私自身は原発事故よりもこうした不安にさいなまれた善意に満ちた放射能原理主義と対立し、孤立感と差別感を募らせた。仲間であればあるほど、心理的な対立が深まった。

食べ物はすべて安全であり危険である。すべては比較の問題だと考えている。農の会の仲間からも、放射能に汚染された農地で作業をさせることは危険だという批判出た。そして、多くの人が農の会を離れた。農の会は消え去ろうとした。ともかく農地や作物の測定活動を続けて、足柄地域の農地の汚染のレベルであれば、そこで作業をすることで危険という事はないと証明しようとした。横浜市では小田原のみかんを使ってはならないと決められた。科学的判断を超え、不安という捉えどころのない圧力が広がった。不安という正義が、客観性を抑えながら広がる風潮になった。科学的基準が不安というもので、打ち消された。今もそれは続いている。それは不安神経症的社会に私には思えた。農の会の活動は火が消えたようになった。そして苦しい7年間が経過した。農の会は活動を復活して来たと言える。参加者も以前に増して増加している。越えられないと思われた絶望も、いつしか新しい始まりになっている。ただ7年前に起きた、最悪の事件は忘れてはならないことだ。

 - Peace Cafe