学問の裏切り

   

東大の実験農場で、違法農薬が使われた事がわかった。古い事件が何故今頃という疑問はあるが。東京大学とはどんな所なのだろう。特別なエリートだけで出来ていると思うが、こんな事件を見ると、そうでもないようだ。問題点あるからと言って、その評価全てまで云々するのも良くないが、この事件内容が稲作として幼稚なのだ。種子消毒に水銀系の農薬を違法承知で使わなければならないと、考えるような無学な者が東大の実験圃場にいていいのだろうか。先ずこう思った。水銀系の農薬でなければ、防げない病気があると、頭が進みすぎて、実践能力が乏しいと言う事だろうか。種子消毒をしないほうがいいと考えて、あれこれ工夫している人間としては、農薬に頼る農業の弱点を見せられた気がする。もうひとつ、大学の使命をどのようなものと考えていたのか。一般の農家の使えないような手法を使ってみて、何の価値があるのだろう。こんな学ボケしたようなレベルの研究のはずがないと思いたいが。

学問が大好きだ。もし学んでいればいいなら、いつでも学びにいきたい学問分野がいくつもある。特に発酵学と免疫学、これは教わりたい。と言ってもその教わる基礎レベルがあるかが心配だが、ともかく専門の研究者から学びたいと言う気持ちは尽きない。又専門の研究者と言うのは、大抵おもしろい。一筋に打ち込んでいるから、奥が深さがちがう。稲作の研究となれば、興味津々のはずだ。所が大学での稲作の研究と言うのは案外なのだ。私の叔父も宇都宮大学で稲作の研究者として、生涯送った人だから、学問的稲作の話は聞く機会が多かった。まだ高速道路など広がる前の時代。光の周波数による稲への影響を調べていた。どんなライトが収量に影響があるか。あるいは温暖化した場合の稲の収量変化なども、何10年も前に誰にも注目されずに研究していた。完全空調設備の温室に経費がかかって、充分な研究ができないと言っていた。農薬など研究するとお金が出るのだがとも言っていた。

学問はいつも先を見つめていてほしいものだ。すぐに成果などなくても良い。産学協同など、間違った考えだ。学問の独立の尊重。農学は国を救う為の学問のはずだ。ところが、有機農業の基礎研究など行っている大学は一つもない。お金にならないことは研究しないと言うのが、今の大学の研究の方向だ。大規模化に伴う研究は幾らでもある。有機農家が実践的に感じていること。例えば、田んぼにとっていい土とはどう言う事か。このことを学問的に掘り下げる研究など、是非大学で学問して欲しいものだ。土壌分類学と言うものもある。土は奥が深いと思う。土木的には土は深く研究されている。しかし農業的には何か違う。農家は田んぼ一枚一枚土壌が違うと感じる。この感覚は学問的にも意味があるはずだ。所が、共通点を見出し、共通の対策を講ずるというのが、大規模化の研究となる。当然化学肥料に農薬となる。

農業ではむしろ、個別対応に役立つ基礎研究が欲しい。これはお金にならない。田んぼでの比較研究の実験的手法の確立。大抵の名人の農法が普遍化しない。福岡正信氏の自然農法が一代の物となる。赤木さんの菜の花除草も、やはり名人芸だとおもう。名人芸で止む得ないと、名人が考えるのは無理もない。それぐらい田んぼはややこしい。それを普遍化するのが学問の役割のはず。名人芸を再現性のある「技術」にする中に、大切な学問の種があるはずだ。それを研究するための基礎的な土壌分類学のような材料を深める。こういう努力が農業分野にも必要。東大の農場の驚きから、話は離れてしまったが。違法と承知でありながら、水銀系の種子消毒をしなければ成らないと、思い込むような学問環境では。それを疑問に考える学生はいなかったのだろうか、と思うと残念なあまり、ついつい。

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