大学のサークル活動がなくなっているらしい。
東さんの山田錦
大学ではサークル活動がなくなってきているらしい。NHKのニュースにそんな話が出ていた。大学の授業で学んだことよりも、美術部の中で学んだことがずっと大きかったと思っている。良い友人が沢山出来た。あの頃のまま今もそのままクラブ活動をやっているようなものだ。
サークル活動がなくなり、直接の教室での授業もなくなり、大学で学ぶ人間の生の接触がなくなったわけだ。大学で学ぶものは人間だと思う。大学は人間を研究する場である。知識というものより、人間と接す来ることで人間を学ぶのではないか。若い時代に利害関係も上下関係も無い人間の渦の中に我が身を投ずる経験は掛け替えのない体験では無いだろうか。
人間がどう生きれば良いのかを、切磋琢磨して学んだ場所は、間違いなく美術部の人間の渦の中である。金沢大学の美術部は100名を超える人達が集まっていた。様々に活発な活動が行われていた。登山部以上に登山に出かけていた。同人誌も良く発行されていた。政治の時代と言うこともあり、政治的な事もなにかと存在した。
大学に入り、美術部に入ることは決めていた。それは絵を描きたいから大学に入ったと言うことだったから、ある意味当然のことだった。絵を描く為には描くべきものが何かを学ぶことが必要だと思っていた。
絵で表現する何かを自分の内側に育てなければ絵など描けないと思っていた。その何かを大学でつかもうと考えていた。絵を描く技術を学ぶという美術学校よりも普通の大学の方が、描くべきものは何なのかを学ぶためには良いと思っていた。今でもそう思っている。
それは大学に行かずに坊さんになろうと考えて、お寺に行ったくらいだ。坊主に成って何かが分かれば絵が描けるかもしれないと考えたわけだ。人間が分からない限り絵を描く事はできないと考えていた。今思えば高校生がそういうことを考えいたことは不思議なことかもしれない。
今は大学に行くとは就職するための予備校的な意識が強いのかもしれない。あるいは、起業するとか、何か金儲けの生き方を見付けるとか、そうした意識が強いのかもしれない。人生の探求などと言う考えは今時は無いのだろう。
お寺では座禅だけで他のことは一切してはならないと言うことがあった。これでは絵を描くことにはダメだと思わざる得なかった。それでもお寺では絵を描く技術などよりは、先ずは人間のために何が必要なのかを学びたかった。
直接的には寺子屋と言うことを考えていた。それは、生まれた向昌院でも寺子屋をやったという記録があった。江戸時代にはあれほどの山奥でも、向学心というものが存在した。読み書きそろばんだけで無く、人間も学んだのでは無いかと考えていた。絵を描くことで、人間を学ぶ寺子屋というようなことを漠然と考えていた。
人間が人間になるためには、同年代の人間でぶつかり合い、友情を深めて信頼できる関係を作る必要がある。昔なら村々にそういう集団があったのだろうが、50年前には大学というところがそうした人間形成の場になっていたのだと思う。
大学に入学した頃には大学は占拠されて閉鎖されていた。そこで教室という所に行くこと無く、すぐに美術部の部室を尋ね、入部させて貰った。それから朝起きれば美術部に行き、アトリエで絵を描くという生活になった。授業は無いのだから、当然の結果であった。下宿に戻って絵を描きにくかったので、アトリエでただ絵を描く毎日に入った。
それは結局卒業するまでそんな暮らしになった。一時は旧軍隊の馬小屋の中に部室を作り、その場所に寝泊まりして学校に通うという状態だった。あそこを使わせてくれた、大学の教務課の方々は何でそんなことを許してくれたのだろう。その場所はフランスから帰ってからも維持されていて、金沢に行けばそこで寝泊まりしていた。つまりほとんどお城の中から出ない学生生活だったのだ。
その場所は今は金沢城の庭園になってしまった。何とも隔世の感がある。そこはうっそうとした森の中で、県体育館の奥に当たっていた。何しろそこには無断でそばの畑を作っていた人がいたくらいの場所だった。あのような場所に暮らせたことは、不思議な幸運だった。
大学では絵を描きたいという気持ちに従った。当然のことだったのだが、そのことから様々な人達との出会いがあり、色々のことが起きた。人間が渦巻いていた環境が大学にあったことは本当に良かったと思う。今絵を描いて暮らしている日常は、あの頃の続きである。
あの頃のまま今に来たという実感がある。あんなに人間の自由を謳歌した時間は無いだろう。美術部の中で自分という人間がすこしづつ形成されたと思う。つまり絵を描く種のようなものをそこで育てる事ができたと思う。何物でも無い自分と向き合うことが出来たのは、良い友人と出会えたからだ。
一番やりたいことを思う存分やる。それが自分のやりたい絵を描くということを見付けることになった。大学で一番学んだことは絵は人間のためのものだと言うことだ。絵は表現である。人間の願いなのでは無いか。表現である以上目的がある。何を願うのか、今でも考えている。
それは学生闘争の中で、おまえは何で絵を描いているのだと問われ続けて、考えたことだった。自分は絵を描くことで社会を変えるのだと考えていた。まったく今思えば出来なかったことなのだが、では何をすれば社会が変えられたか。予想通り、何も出来ないまま悪方向に進んでしまった。絵はまだ未来に可能性を残している。
人から見ればおかしな考えなのだろうけれど、その意味では私の絵の描き方は社会を変えるためという、人間を変えるためという、目的の存在する描き方でもある。自分でも少しおかしな考えだとは思っているが、究極の私絵画は人間を変えて行く力を持つという、願いのようなものがある。
先日も水彩人展で、新同人の方と絵の話をしていて、はっきりとそれは間違った考えだと言われてしまった。絵は他人のためのものではないというのだ。確かに絵は自分の為なのだが、その自分の底にまで到達すれば、それは他者にも通ずるものになると考えている。人間が生きると言うことは苦しいものだからこそ、人間は楽観という共通の場に至るということを考えている。
中川一政の絵を思うのだ。そこに描かれた崇高というような世界観は人間の尊厳である。人間の願いである。絵は人間の真実、宇宙の真理、そうしたものを表現できるものだと思っている。もちろんその前に人間をみがかなければならないわけだが。
こういう考え方は大学時代にみんなから学んだことだ。必死に絵を描きながら、絵とは何をするものかを考えながら、若い時代を生きた結果だ。あれから50年も同じ考えで生きてきた。そして残る時間もこのまま絵を描いて行きたい。