毎日の動禅体操のあらまし

   



 時々動禅について書きたくなるのは、継続の力による進歩を感じるからである。2019年9月1日のブログに太極拳を始めたと書かれている。もう一年半毎朝必ずやっていると言うことである。しかも、やらなければならないではなく、毎朝やりたくなってしまうと言うぐらい本気である。

 今回、動禅を「動禅体操」と名前を優しくしようと思った。禅などというと少し偉そうで壁が出来る。でも禅でありたいということもあるので、後ろに体操を付けた。名前は大切である。体操と付けた途端に、ぐっと本質に迫った気がしてくる。

 つまり、体操と付けた為に、急に修行から日々の身体の整えという感じになる。それでも前に動禅という立て看板があるから、禅で身体を整えましょうという気分だ。あくまで動禅拳でも、動禅道でもないのは当然のことである。

 石垣島は書物についてはすごいところで、南山舎というすばらしい出版社があり、良い本を沢山出されている。その上に町の中心部に山田書店という、大きな本屋さんがあり、沖縄関係の本の在庫は日本一だろう。ブックオフもあるし、ちいさめの個性的な古本屋さんもある。滅多にないくらい大きな古本屋さんもある。

 ブック共販やいま店というらしい、名前が曖昧なのはどうも表示が不明瞭なのだ。かなり大きなお店で、小田原にはないくらい大きなお店である。そこに大量の古書がある。本は好きだから、つい散歩の途中に寄ってしまう。そしてついつい買う。置くところがないのに買うのだから、困る。読み終わったら引き取って貰えば良いと思っているが、可能だろうか。

 先日そこで、「禅的体操」樺島 勝徳著という本を見て買った。早速読んでみて面白かった。著者は薬師禅寺住職とある。5つの基本動作だけの素朴な体操である。体操は自己流で自由であるべきと冒頭にあるので、購入したのだが、実は坊さんらしいお説教本であると読んだ。

 極めて細かく体操の方法が書かれていて、樺島流以外に入り込む余地も無い体操である。その体操自体はとても参考になる。私なりに解釈して取り入れようとは思うが、何故、坊さんというものはかくも説教じみてしまうのかと、その点は残念だった。

 私も大いに気を付けなければならないわけだが、人間は教わり好きが実に多い。大多数の人間が教わることが目的になってしまい、教わってどうするのかと言うことは別物になる。

 絵を習う。絵を教わる。これは本当に無駄どころか、自分の絵を見つけるための邪魔にしか成らない。絵は基礎などないから良いのだ。描きたいように描く為に絵があるのに、立派な見本のような絵を描いてどうするのかと思う。

 特にお坊さんなどと言うと、何かありがたいことを教えてくれるのではないかと言うことで、お説教というような行事がお布施の御利益と言うことになっている。それでついつい、教える方が先生になり、偉そうな有り難そうな言い草を述べるようになる。

 一緒にやるだけでいい。それ以上のことはすべて害だと思うべきだ。黙っていられない人は一緒にやるのも止めた方が良い。教わる人に迷惑をかけるだけだ。教わる人が自分流を見つける邪魔になるばかりである。

 ついつい、文句を書いてしまったのは最初に自分流こそ禅だというようなことを言いながらどうしたという気分になってしまった。この樺島流はあくまで樺島という個別の身体に適合した体操であるだけなのだ。それが禅だと考えている。

 禅的の的がくせ者なのだ。本当の禅ではないと言うことなのだろう。じゃ禅風体操ぐらいだろうか。むしろヨガではないというような意味なのかもしれない。私が動禅体操と言う言葉を考え出したところにとつぜんの本である。もちろん、大分昔の本ではあるから、動禅体操が真似のようなものである。

 体操という物は自分の身体から出てくる動きである。自分の体と心に良いという物を、自分で見つけ出す以外にないものだ。人に良いからと言って、一般論はないと思っている。それくらい人間の身体と心は個性に満ちている。

 私であれば、目的は100まで絵が描ける身体と心を整えると言うことになる。70歳から動禅体操を始めて、その頃よりは身体は明らかに整った。体幹はいくらか強くなった。足の筋力は前よりはましのようだ。身体の柔軟性も以前よりはいい。

 たぶん肺活量も前よりは増えたようだ。これは計りたいと思うのだが、機器がないので今のところ出来ないでいる。一番は絵を描くときの心の持ちようを整えている。自分の心を開いて、自分が出てくるような心境になり、絵を描きたい。このための動禅体操である。

 動禅体操でも立禅をする。禅的体操でも立禅が5つの動作の中の一つである。実はよく似ていたが一つだけ違う。私は手は座禅の時と同じように組むが、禅的では手は両側に落としているだけだ。何故なのだろうか。ヨガの瞑想ではやはり、手は合わせない。

 手を合わせる方が私は心持ちが良いから手は合わせてきた。とても落ち着くのである。丹田の前で手を組むと腑に落ちる感じになる。両手を脇
に下げていたのでは頭が呆然としてしまい、集中する方向ではないように考えてきた。腰の落とし方、背の伸ばし方は同じであった。

 動禅のなかでも歩く禅がある。散歩である。座禅の中にも歩く禅はある。歩くと言うことを禅としてとらえてみている。姿勢もあるし、足の出し方もある。心の持ちようもある。毎日4キロほど歩くのだが、この時にどういう歩き方、どういう心持ちで歩くのが良いのかを動禅として考えている。

 どうも歩き方を突き詰めて行くと、歩くことの奥深さに行き着く。歩く距離は1里4キロ45分ぐらいが良いようだ。もちろん私の場合のことだ。石垣はすばらしい景色だから、景色の中に入り込むように歩いている。丘の上の雲と同化するように歩いている。
 夕方の45分集中して歩く。だんだん散歩と言うより、歩く禅である。終わると風呂に入り10分。セットで1時間。朝の動禅体操も45分だ。スワイショウ4分。八段錦18分。太極拳12分30秒。体幹基礎運動10分。そして風呂に入り10分でおおよそ一時間。

 どちらも集中して、全力でやっている。楽しくではあるが、本気でやる。この2つの動禅体操をするようになって、絵を描く心持ちが少し変わってきたような気がしている。良い絵を描こうと言うより、どこまで自分という物になりきって描けるかと言うことである。

 それが出来るようになれば、禅画と言うことになるのではないか。禅画については又改めて書いてみたい。

 

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