「YouTuber」という職業
「YouTuber」という職業が登場しているのだそうだ。ユーチューブで歌をあれこれ聞くのは好きだ。チャンネル登録している人もいる。pipikinngと言う人である。いろいろの人の歌を自分流に歌う。唄い方が素朴で実に面白い。しかし、チャンネル登録者数はそう多くはない。中には何百万人がチャンネル登録をしているものがあるのだそうだ。
こうしたチャンネルの中にはスポンサー企業があるものもあるそうだ。企画費がテレビ番組と変わらないほど出ているという。そして番組はテレビ以上に利益を上げているという。こうした流れは一度始まるともう止まらないだろう。見る側としてより興味が湧くものに流れて行く。
予測されていたことではあるが、こうしてテレビが支配する世界は終わりとなる。理由は一つである。社会的制約である。テレビには放送倫理委員会という存在がある。社会の枠を逸脱した番組を指摘して、反省を促している。テレビ電波は放送法で許可されたものだから、関係ないとは言えなくなっている。
ところが、インターネットの発信であるユーチューブでは法律的な枠が無い。あったとしても、かなり緩い。誰でも等しく、自由に開設できる。だから、テレビへの出演を禁止された人も自由に出られることになっている。もちろん逆にユーチューブで注目されて、テレビに進出する人もいる。
例えば島田紳助さんなどはどうだろうか。テレビでは出られないことになっているが、ユーチューブでは出演が出来る。出れば注目も浴びるだろうし、衰えていなければ、通用もするのだろう。こうして社会の制約の壁が壊されて行くに違いない。
反社会的勢力の宴会に出演して、副業としてお金を稼いでいたというので、テレビに出なくなった宮迫さんという人はユーチューブで活動を始めたという。いつもこうして社会の規範というようなものはどこかから破られて行く。又そのことは悪いだけでは無い。
一度社会から除外されたものが、社会復帰するための中間地帯は必要なものだ。犯罪を犯したものでも、執行猶予期間や服役が終われば、社会復帰するプロセスが必要だろう。そうした、グレーゾーンは社会には必要だと思う。
そもそも、芸能と言うものはアナーキーな側面があるものだ。閉塞した社会に対して、側面から風穴を開けるような機能がある。社会が行き詰まれば行き詰まるほど、新たな表現の仕組みが芽生えてくる。その一つがユーチューバー成る物なのだろう。
ひとりの才覚でテレビ局を向こうに回して勝利すると言うことは痛快であろう。江頭2:50と言う人は何度も猥褻芸でテレビ出演が出来なくなった。今やユーチューブで活躍しているらしい。人に嫌がられるような人だから、好む人もいるわけだ。
小学生の成りたい職業調査で男子では一位ゲームクリエーター二位ユーチューバーだそうだ。女子は一位芸能人二位漫画家。(株式会社ベネッセコーポレーション進研ゼミ7661人の調査。)
ベネッセによるとこの子供たちの夢の実現に、大人は協力して行かなければ無いとしている。とんでもない話だ。子供の夢は夢であり、別段大人が協力する必要など無い。大人は子供たちがまともな夢を描けるように、それぞれが自覚のある生き方をすることだけで良い。その姿を見て子供がまともな夢を持つようになる。
子供たちの夢はもちろん自由でかまわない。ユーチュバーが行けないという意味では無いが、学習塾に通う子供たちの夢にしては違和感がある。勉強をして、芸能人やユーチューバーになりたいというのではどうもおかしい。こんな夢しか描けないような大人のの在り方では困る。
昔は神童を評するに、末は博士か大臣かと言われたようだ。学者が一番の目標の社会というのは、いいと思う。これは政治家をいくらか軽く見るという意味もある。学者の方がよりエライと言う、庶民の反発心のようなものを含んでいる。
ゲームを子供は好きに違いない。自分もそうだったから、気持ちは良く理解できる。メンコ、ベーゴマ、将棋、これでもかと言うほどやっていた。どうしようも無い子供だった。もちろん親に隠れてやっていたのだ。親は勝負事の一切を嫌っていた。それに親は子供のことどころではない暮らしだった。
だから、悪事にはまっているというような感覚で勝負事を隠れてしていた。同じ意味で絵を描いていると言うことも社会で必要とされない限り、悪事に近いものだ。社会のためになる絵を描きたいというのは今も強い。ただ、社会に役立つ絵というものは、芸術としての絵だと思っている。
そんな子供だったが、神童では全くないぼんくらではあったが、夢は博士の方だった。結局勉強より、絵を描くことが好くだったので、絵描きになる夢を描くようになった。
どうしても絵のことになるが、子供の夢のユーチューバーの問題である。女子の場合、芸能人と言うことのようだが、たぶんユーチューブで活躍しているアイドルより、テレビアイドルの方が人気があると言うだけだろう。ユーチューブに人気アイドルが出現すれば、一気に変化する。
プロダクションが扱うタレントの場合、誰かが無断でCDから歌をユーチューブに掲載すると、削除されてしまう。無料で聞ければCDが売れないからだろう。しかし、消されないものもある。宣伝の為かもしれない。ユーチューブは無視できない場になっている。ユーチューブに全く出ていないような人の歌はたぶんCDも売れないのだろう。
コロナでコンサートが出来なくなった。芸人の人も公演の機会が減ったのだろう。ますます、ユーチューブが生活をかけた売り出しの場になっているのだろう。問題も無いわけではないが、テレビの力が削がれて行くという意味では悪いことではない。個人が企業と対等に戦える場である。
ユーチューブの情報番組のようなものもある。報道と言えるほど調査力があるものは見たことはない。現状では自己主張のためにテレビの真似ているように見えた。何か陰謀説を説明しているようだった。
最近のNHKが半国営放送のような状態では、報道の持たなければならない健全な批判精神が失われたと言える。特に学術会議問題に対して、避けているような態度が解せない。背景に政府からの圧力を感じざる得ない。こうしたときに、ユーチューブに正しい批判精神が芽生えて貰いたい。
北朝鮮や中国やイランではユーチューブでも自由な発信は出来ないだろう。一見そうした環境では統制は取れているようにみえるだろう。しかし、人間力は失われかねない。自由主義と全体主義のどちらが優れているのかと言うことになる。自由主義が全体主義よりそれぞれ個人が才能を開花させる。当然のことだと思いたい。
ユーチューブは社会に必要なものとも言える。社会は善悪相い混ざり、成立している。その混沌の中から、全体としては良い方角が産まれると信じていいと思っている。子供たちはもしかしたら、こうしたユーチューブの可能性に気付いているのかもしれない。